村上春樹×蜷川幸雄『海辺のカフカ』:個別包装される世界
- krmyhi
- 2015年10月10日
- 読了時間: 3分

蜷川幸雄が生きている間に、一度は舞台を見ておきたいと思い行ってきました。
村上文学を舞台化するなんてちょっと想像できませんでしたしね。
舞台芸術はあんまり見たことがありませんでしたが、今回の作品は素人目に見ても大道具の使い方がとてもユニークでした。大道具は全て巨大な水槽のようなガラスケースあるいはフレームの中に入れてあり、移動可能なのです。たまに登場人物がその中に入っていることもあります。それぞれの大道具が可動式のため、目まぐるしく場面を移行させることができます。
この独特な表現方法は今作品の重要なポイントだと思うので、もう少し詳しく説明しましょう。例えば、バスターミナルの場面を表現するとき、普通の舞台ではターミナルの書き割りとベンチや表示などの大道具で場面の風景を表現します。対して、今作品は建物が描かれた典型的な書き割りが一切用いられないため、それぞれガラスケースに入ったバス、自動販売機、ベンチ等で表現します。大道具は、すべてガラスケースのようなフレームのような「箱」の中に入れられているため、それらが直接「舞台」の上に置かれることはありません。直接「舞台」を踏むのは役者だけとなっています。
このような「地に足がついていない」大道具と目まぐるしい場面展開により、浮遊感のある独特な雰囲気を感じることができました。まさに水面にたゆたうような印象の作品となりました。
また、背景と役者の間にガラスケースのような「箱」が介在することにより、切り取られ、張り合わされているようなある種の違和感を観劇する人々に与えます。この違和感も、村上作品風で良かったと思います。ぼくは村上作品を読むと、なんだか物語の登場人物たちの間に透明な膜が張ってあるような感じを受けることがあります。あるいはそれは、人と動物の間、人と物体の間、人と記憶の間等・・・それぞれのものの「コミュニケーションの不調」的なものが絶えず内包されている気がするのです。(もちろんソレは直接表現されていることもしばしばあります。しかし、ぼくは物語の全ての部分に通底して、その薄い膜を感じるのです。)そのような、世界のあらゆるものとの「コミュニケーションの不調」がガラスケースのような「箱」に入った大道具により、可視化され、有効な表現だったと思います。
村上作品の大きなテーマである「コミュニケーションの不調」は、その独創的な大道具で表現されていましたが、今作品は、紛れもなく村上作品ではなく、蜷川作品でしょう。蜷川作品を他に見たことがないので、テキトーを言っていますが、ぼくの考える村上作品とはかけ離れていました。もともと村上春樹『海辺のカフカ』とは別物だと思っていたのでそれでいいんですが。
備忘録として、特に異なると思った点を挙げておきます。
・発声・演技の仕方
やはり舞台だと、観劇者がわかるように、聞き取りやすく発音したり、大きく演技をするため、ぼくが考える村上文学の登場人物とはかけ離れていました。映画の『ノルウェイの森』も見ましたが、あちらの方がぼくのイメージに近かったです。これは舞台と映画では演技がことなるので当たり前ですね。
・ ストーリーの省略について
村上作品は、登場人物のセリフがかっこ良すぎるため、内容を端折るとそのセリフだけがとても浮いてしまいますね。あるいは、舞台でシェイクスピアなどをよく見る人にとってはあまり感じないのかな。とにかく、かっこ良すぎて浮いてしまっているセリフが散見されました。
この3連休、溜めていた記事を放出したいと思います。がんばります!
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