古今東西100人展:美術館におけるバリアフリーについて
- krmyhi
- 2015年9月6日
- 読了時間: 6分
久々の更新です。
ワタリウム美術館の「古今東西100人展」に行ってきました。
JRという作家の巨大写真群で建物全体をラッピングしています。
インパクトがありながらも、周りの町並みから浮いていない、良い作品だと思います。

まずちょっと気になったのは題名です。
「古今東西」はちょっと風呂敷を広げ過ぎてはいないでしょうか。だって作家は全員19世紀以降生まれ。第三世界出身の作家はたったの5名。ベネズエラ、チベット、キューバ、タイ、南アフリカ。ここにはインドさえも含まれていない。これじゃ怒る人がいると思いますよ、さすがに。
どうしても気になったので、学芸員さんに何を基準に100人を選んだのかを聞いてみたところ、主にワタリウム所蔵の作品を一斉に公開した、というようなご回答でした。
ううむ。
悪く言えば、持ち合わせのものを並べて「古今東西100人」と銘打ったのか、って感じです。いずれにせよ、ちょっとネーミングに難ありだなと思いました。
さて、本題に入ります。
「現代美術」というジャンルはあんまり得意じゃないこともあり、そこまで心に残る作家はいませんでした。もちろん数人はいましたが。特にバックミンスター=フラー※1については興味を持ちました。
※1バックミンスター=フラー 思想家、デザイナー、詩人等様々な肩書きを持つ。有名な「宇宙船地球号」はこの人の言葉。
今回は、ワタリウム美術館の空間の使い方について述べたいと思います。ワタリウム美術館の特色は、展示室から展示室への移動にエレベーターを用いなければならない点だと思います。このような美術館は、僕は初めてでした。
いくつかのフロアにわたって展示が行われている美術館に行ったことはあります。例えば高崎市立美術館がそうです。

高崎市立美術館は、一階から三階まで吹き抜けとなっていますが、一階の展示空間の中に三階まで続く階段が配置されています。つまり、一階の展示室からの世界観を保有したまま、二階への移動が可能なのです。
二階と三階は同じ間取りとなっており、展示室が二つずつあります。それらの展示室へ到達するまでの通路にも展示がなされることが多く、そのため展示の世界観が途切れることなく、すべての作品を見ることができます。
それに対して、ワタリウム美術館では、エレベーターですべての階を移動しなくてはなりません。
そのため、そこに必ず「断絶」が生じます。階段があることにはありますが、ドアで仕切られています。展示室から階段が見えないようにしているのです。これは確かに展示を見る上で階段が世界観を壊してしまうこともあるので、一概に悪いとは言えませんが、せっかく展示されている作品の世界に入り込んでも、移動のためエレベーターに乗ることで、一度頭が現実に引き戻されてしまいます。しかもエレベーターには、美術館の地下に併設されているカフェの案内などがべたべたと貼ってあったりするのです。
率直に言うと、この「断絶」をもっと効果的に利用できたのではないかとぼくは思うのです。確かに、各フロアごとに何となくの色分けはありました。
二階は現代美術作家の、三階は思想家や建築家など普通美術家とは呼ばれない人々の、そして四階はシュルレアリスム作品の展示となっていました。
あるいは、「古今東西100人」と一括りにしてしまうのではなく、「40+30+30」とかではダメだったのでしょうか。
しかし、このワタリウムの構造は、ある意味でバリアフリーであるとも言えます。ワタリウムにおいて、健常者と車いすの人の条件は同じです。だれもが、その「断絶」を受け入れて、次の作品群へと進まなければなりません。対して、高崎市立美術館のように、健常者の動線と車いす使用者の動線が異なる場合、車いす使用者のみに「断絶」を強要していることになります。
今まで、展示室から展示室への移動でエレベーターを使用したことがなかったので、分かりませんでしたが、この「断絶」はぼくにとってはとても不快なものでした。車いすを使用する方々は、美術館に行く度にこのような思いをしているのですね。
今回、ぼくはエレベーターがこんなに気になるとは思いもよりませんでした。二つ以上のフロアを持つ美術館は、本当の意味でのバリアフリーに取り組まなければなりません。でもそれはなかなか難しいことだと思います。
・・と書いていて、バリアフリーな美術館がとても身近にあることに気が付きました。アーツ前橋です。

この美術館は、フロア二つに別れていますが、白川昌生の展示(→http://krmyhi.wix.com/shell-in-the-night#!白川昌生『ダダ、ダダ、ダー地域に生きる想像☆の力』:ローカリズムと民衆の歴史/cu6k/5E16EB74-0AF3-4F03-B0E0-CDF98B2DF4C1)の時は、階段はなく、巨大なスロープが階と階を繋いでいました。これなら、車いすの人達も、健常者と同じ条件で展示の世界観に入り込むことができます。
アーツ前橋の立地条件は、確かに1フロアあたりの面積を大きくとることを許しています。大きな箱を作れるというのは、田舎の強みでもあります。しかしアーツ前橋も全くの制限がなかったわけではありません。前橋の繁華街に位置し、また、もともと商業施設だった建物を改装したということもあり、アーツ前橋にもさまざまな制約があったのです。そのような制約の中で、障害を持つ人も楽しめるように、建築段階から工夫されているのです。
さらにもう一つ気になった点についても述べておきましょう。これは、ワタリウム美術館のスペースが足りないことからくるものですが、いくつかのドローイング作品が、かなり高いところに展示されていました。二階から三階にかけては吹き抜けとなっており、二階のかなり高いところに作品が展示されていたのです。
狭いスペースに100人以上の作家の作品を並べるため、これは仕方のないことですが、果たしてどこまで計算されているのだろうか、と思いました。高いところに展示するということは、否応なく、作者の意図とは違うパース(視点)から作品を眺めることとなります。これはもし展示品が、伝統的な古典的美術作品だった場合、絶対にやってはいけないことの一つです。
確かに展示対象が現代美術のため、ある程度は許される(※2)のだと思いますが、展示者はどれだけその問題を丁寧に扱っているのだろうか、と疑問を持ちました。
※2 ぼくは、現代美術の最大の特徴の一つとして、受け手側が作品に参加できる、という点が挙げられると思っています。つまり、展示者やその作品を見る人が、作品そのものにある程度の変化を加えることが許されている、あるいは変化を加えることで作品として完成する、ということです。
今回の展示にも、最上階にベッドを模したオブジェがありました。あのような作品は、実際に受け手側が触れてみたり、座ってみたりすることで、作品として成立するのです。 そのため、現代美術というジャンルにおいては、ドローイングを作者の意図とは違ったパースから眺めさせる、という美術館側のアレンジもアリだとは思いますが、果たして展示の仕方は適切だったのでしょうか。
二階は壁一面にドローイングや映像が並べてありましたが、どのような基準でその配置を決めたのか、ちょっと分かりませんでした。まあ素人が簡単に意図を読み取れるような配置はしていないのだとは思いますが。
最後に、良かった点を述べておきましょう。それは、ワタリウムの二階の窓から見える、向かいの建物の壁に直接作品をドローイングしていた点です。とてもスケールの大きな展示方法です。周りに建造物がひしめき合う土地だからできた展示方法で、都会のデメリットを逆手にとった上手い空間利用だな、と思いました。
それでは。
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