『安野光雅展--ふしぎなえから繪本三國志まで--:フッサール「他我」とトポロジーについて
- krmyhi
- 2015年4月1日
- 読了時間: 4分

安野さんは新国立競技場に反対声明を出していたので、名前だけは知っていました。
また、彼は日本語についてもかなり造詣が深く、和歌集なども出しています。
彼の作品は、穏やかでユーモラスな水彩画で時に目の錯覚を利用した絵(トポロジー)(下図参照)も描きます。

『天動説の本」という本が展示されていました。この本にはトポロジーは使われていないようですが、思想の面で『ふしぎなえ』と連続性があるように思われます。
この作品についての説明に、
「この作品に出てくる人たちは、地球の外から自分たちの世界を見たことはありません」
と書いてありました。
この表現、面白いですね。よくよく考えてみると、昔の人たちだけではなく、今の我々だって実際に宇宙から地球を眺めた人はあまりいません。もちろん衛星写真等で簡単に宇宙からの地球を見ることはできるようになりましたが、本物を見ることができるのは宇宙飛行士だけです。
安野作品の特徴は、この説明文に大変表れていると思います。自分では、現実には立てない視点からものを眺めること。
この「トポロジー」という技法は、「他我」を発現させるために生み出されたのではないか、というのが今回の話です。
フッサールが発見した「他我」という概念があります。内田樹はこの概念を以下のように説明しています。
フッサールの「他我」の説明は「家」や「机」や「さいころ」などのオブジェをもちいた卓抜な比喩で語られるけれど、これらはすべて「ある空間を占めている物体」である。 私が「家の前面」を見ているとき、私はそれを「家の前面」であると確信している。 どうして確信できるかというと、私がとことこ歩いて家の横に回り込むと「家の側面」があり、さらに回りこむと「家の裏面」があり、はしごをかけると「家の屋根」が見え、床下にもぐりこめば「家の底」が見える・・・ということについてゆるがぬ確信をもっているからである。 「そこに行けば、そのようなものが見える」という確信あればこそ、私は「私が今見ているのは『家の前面』である」と判断できる。 この想像的に措定された「そこに行って、家を横やら裏から見ている私ならざる私」、それが「他我」である。 私が世界を前にして「私」として自己措定しうるのは、無数のこの「想像的な私」=他我たちとの共同作業が前提されているからである。(内田樹ブログ2005年5月27日)
端的に、ぼくなりの解釈を述べますと、ある認識「X=1」を持つ自分は、同時に存在している「X≠2」あるいは「X≠100」を認識する自分(←他我)を仮定している、ということです。
エッシャーの影響をうけた「ふしぎなえ」(いわゆる目の錯覚を用いたトポロジー)は、この「物事をひとつの側面からしか見ることができない」という考え方から出発しているのではないでしょうか。
エッシャーの「相対性」という作品も、この上に挙げた安野の「ふしぎなえ」も、複数の視点から見える図像を非常に巧妙に組み合わせて、平面に表わしたものです。
トポロジーは平面だからできる表現です。立体にはできない図像。
一つの例として、様々な方向に階段が伸びている部屋の絵があります。エッシャーの絵です。重力を無視したように、部屋のあらゆる方向に伸びていく階段を、芋虫に似た奇妙な生物が行き来しています。これは、一つの視点からでは決して描けない作品です。部屋の上方から、下方から、水平方向からetc.あらゆる方向から見える風景を頭の中で想像して、一つの視点に入れこむのです。
これってすごい矛盾ですよね。複数からの視点を一つの平面にまとめた図像なのに、立体では表わすことができず、平面でないと表せない。
まあ、すでに誰かが言っているんでしょうが、エッシャーの「トポロジー」とフッサールの「他我」の相関性はとても面白い発見だと思いました。
そして、複数の視点からの像を、一つの平面で表わす、という技法には、ピカソやブラックの「キュビズム」があるではありませんか!
まさかエッシャーとピカソが異なる技法で同じもの(=他我の現象)を目指していたとは!(テキトー)つまり、『泣く女』は、女について描いた作品なのではなく、ピカソと世界の関係性を描いた作品なのですな。
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