寺子屋ゼミ:つくられる病
- krmyhi
- 2015年2月13日
- 読了時間: 6分
ついに、ついにお会いしてきました。内田樹先生に。
本やブログ、ラジオから想像していたとおりの人柄で、無邪気な大人 という感じでした。威厳がありながら、どこか安心するような。大変貴重な経験となりました。(しかも!釈先生にも意図せずにお会いすることができるなんて!感無量!)
寺子屋ゼミは、内田樹先生の合気道道場「凱風館」にて不定期で行なわれているゼミであり、参加者は様々なジャンルをテーマに発表、討論し合います。
今回の寺子屋ゼミのテーマは、『代替療法の現状と可能性〜ホメオパシーが教えてくれた「病」と「健康」』というものでした。
ぼくは、ホメオパシーというものを知りませんでしたので、大変興味深く発表を聞かせてもらいました。
代替療法とは、自然療法、補完代替療法などとも称され、代表的なものにアロマテラピー
やヨガ、整体、キレーションなどが挙げられます。ホメオパシーも一応、代替療法の一つではあるのですが、その定義付けがなかなか難しいという療法です。
現代医療とホメオパシーの違いは、病気に対する態度に色濃く出ています。以下は、レジュメからの抜粋です。
「症状」の捉え方の違い
現代医療:症状とは消し去るための攻撃対象(症状が無い状態=健康)
ホメオパシー:症状とは治癒への道すじを指し示す大切な身体からのサイン
主に指摘されていたのは、
・現代医療は、命・健康をビジネス化している
・人間は病気になるのではなく、もともと病気であるため、「健康」と「病気」の二つの極のバランスをとることが大切
ということだったかと思います。
最後は、「現代医療、代替療法の互いの良いところ・悪いところを学び、補い合ってそれぞれの得意分野を生かし合いながら患者さんを健康に導いて」いくことが将来的な目標である、と締めくくられていました。
大変勉強になるお話でした。
先生のコメントは、まず、「病気」という概念に対する非常にラディカルな問いかけでした。
自身の膝の故障を例に出しながら、「病気」は障壁ではなく、自身の指針となりうるものなのではないか、というまさに逆転の発想と言えるようなお話でした。
そして、アイデンティティ形成型ビジネスの問題点についても言及していました。
アイデンティティ形成型ビジネスとは、企業側が、目指すべき人物像を提示し、消費者に後追いさせるようなやり方のビジネスのことだと解釈しました。たとえば、「髪が薄い男は格好悪い」というイメージをばらまき、育毛剤を売りつけるような。。。
ぼくの大学時代の先生に、「ア○ランス」や「アート○イチャー」粉砕を唱えている人がいます。なぜ、それらの会社が批判の対象となるかと言うと、CMなどで薄毛を恥ずかしいものとして過度に宣伝し、薄毛差別を生み出していると言うのです。つまり、自ら差別を生み出しておいて、その治療法でお金を儲けるという、マッチポンプ式のあくどい商売という指摘です。
これには、なるほどそういう見方もあるのか、と感じ入りました。
さて、もう大分前のことになりますが、ぼくの職場に精神科医を招き、講演をしてもらったことがありました。教職員対象の講演会で、テーマは「発達障害の現在」についてでした。
現在、脳科学やDNA分析の発達によって、一口に「発達障害」と言っても、様々な種類に分類できるようになってきました。また、発達障害を分類できることにより、薬も開発されています。
社会の発達障害に対する理解は深まってきているが、今後一層理解と支援体制を拡げていくべきだ、という内容の講演会でした。発達障害に悩まされている子供や周囲の大人にとって、学校側の理解と支援は大変重要なことだな、と素直に思いました。
しかし、ぼくは一抹の違和感を覚えました。ASD(自閉症スペクトラム障害)、ADHD(注意欠如・多動性障害)、LD(学習障害)などの言葉は、ぼくが幼い頃は聞いたことのない言葉でした。それはもちろん、発達障害に対して、世間の理解がなかったということですが、それだけではないと思います。以前は、少しばかり注意力が散漫だったり、コミュニケーション能力が欠けていても、それもその子供の個性として扱ってきたのではないでしょうか。少なくとも、その理由を突き止めようと、子供を病院に連れて行ったりはしなかったのではないでしょうか。
つまり、大人たちは、子供の能力の低さに何らかの理由をつけないと安心できないほど、「余裕のない世界」の中で子供を育てているということです。学力競争が激化していることの証左だとぼくは思います。
学力差別の少ない、おおらかな社会であれば、「発達障害」などという障害は生まれなかったのではないでしょうか。注意力が足りないことやコミュニケーション能力の欠如に対して、許容量の低い社会だからこそ、生まれた「障害」です。そして、「障害」として世間に認知されれば、以後大人たちは子供に、発達障害でないことを望みます。そのような子供に対する願望は、差別の裏返しといっても過言ではないのでしょうか。
今後、科学の発達により、我々が発達障害を乗り越えたとしても、また新たな「障害」が生み出されると思います。過度に激しくなった競争社会をどうにかしないと、この連鎖は止まりません。
実際に、「発達障害」で悩んでいる人はたくさんいます。なので、彼らのために理解と支援体制を拡げていくことはとても重要なことです。ぼくはそこを否定するつもりはありません。
しかし、あくまでそれは「対症療法」に過ぎません。その「障害」を根本から失くすのであれば、学力競争が激化し過ぎた社会のあり方を変えるしかありません。病気や障害を失くすためには、科学の力だけではダメなのです。
(現在、大学から文系の学部を廃止し理系のみにしろ、という議論が生まれ始めていますが、この「病気・障害をなくす」という観点からも反論が可能だと思います。科学の力がむしろ人々を生きづらくさせていることだってあるからです。)
ぼくは、このような病気や障害が「科学の発達」という名目の下、生み出され、差別へと変化していく社会現象を、「病気・障害の大量生産、大量消費」と呼びたいと思います。病気や障害というものは、社会が生み出すものでもあるわけです。特に、「精神病患者」については、長い間社会に非道な扱いを受けていましたが、「精神病」というものがどこまで科学的知見に基づいたものであるかについては、未だ多くの疑問が残されています。
健康でありたい、健常でありたいという人間の欲求は、「健康でない」「健常でない」人々への差別心にもなり得ます。
我々は、自分の「欲望」について疑いを持ち、再度捉え直すことが必要なのかもしれません。
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