内田樹×中田孝『一神教と国家』:殻を破る
- krmyhi
- 2015年2月5日
- 読了時間: 6分

これは、「今」、できるだけ多くの人に読んで欲しい本です。
今、ぼくたちは、イスラーム世界のことを知るべき時なのだと思います。
「テロリスト」と呼ばれる人々に対して、どのような行動をとるべきかについては、盛んに議論されていますが、彼らがなぜ「テロリスト」と呼ばれるに至ったかについては、まだまだ議論が交わされていないように思います。
まずは、彼らのことを知ることが肝心です。
本書では、イスラームの法学者で、自身もイスラム教徒である中田孝さんと、内田樹の対談形式の本です。中田さんは、ちょっと怖い写真も出回ってますが、この人の言論で、かなりイスラーム世界への理解が深まりました。
現在のイスラーム圏がいかにして不安定な状況に陥ってしまったのかを、イスラームの教義や、欧米との関係性から述べています。
本書の要旨は、現在イスラーム圏で紛争が絶えないのは、世界大戦以降、欧米によって「国民国家」という枠組にはめ込まれてしまったからである、というものです。
ぼくは、本書を読んで、目から鱗が落ちた気分でした。我々は、イスラーム社会のことを考える時に、欧米が作り上げてきたロジックでしか考えることができません。しかし、イスラーム社会を、欧米型の考え方を適用して扱うから、無理がでてきてしまうのです。
具体的に挙げると、「国民国家」や、「政教分離」や「兌換紙幣制」というものは、我々の世界では、当然のごとく「良いもの」、「スタンダード」だとされています。しかし、イスラーム社会においては、必ずしもこれらのものが良いものとはされていません。
これは、欧米(ヨーロッパをひとくくりにすることには抵抗がありますが、便宜上欧米と言いいます。)や日本は、元来農耕社会であり、イスラーム圏の人々は、遊牧社会であることに起因します。遊牧社会にとっては、国土や国境というものが必要ありません。本来、あの北アフリカから東南アジアまでの広範な地域は、人々が自由に移動できる一方、宗教・言語・経済的にかなりつよい結びつきがあり、とてもグローバルな地域なのです。イスラームは厳格な宗教と考えられがちですが、イスラーム圏に入ってくる者に対して、改宗を強制しません。その寛容性で、彼らは上手くやっていました。世界大戦までは。もちろん、それ以前にも争いはありましたが、それはキリスト教世界との争いが主で、現在のように酷い混乱状態ではありませんでした。
しかし、そんな広範な地域で経済をグルグル回されてしまうと、困ると考えたのがアメリカ型のグローバリストたちです。資本主義の至上命題である「絶えざる市場の拡大」の理念に則って、彼らの土地に国境を引かせ、イスラーム型のグローバリズムにひずみを生じさせます。「国民」や「国益」という概念を持ち込むことで、もうそれまでのグローバリズムが上手く機能しなくなってしまいます。
中田さんが最も批判しているのは、欧米型の考え方にどっぷりと浸かってしまった、イスラム諸国のリーダーたちです。彼らが、本来のイスラームの考え方に反して、「国民国家」というものを維持しようとするため、宗教的にもライフスタイルにも無理が生じ、経済的には欧米に収奪されることになる、ということを指摘しています。以下、本書からの引用です。
OICとは、一九五〇〜一九六〇年代に旧ソ連県をスポンサーとするアラブ社会主義の運動が台頭してきた時、これに対抗して湾岸の王制諸国が結成した組織です。一見すると世界のイスラーム諸国民の連帯のための組織のように見えますが、中田先生の評価は違います。
OICとは、その出自からして、イスラームの連帯をうたう憲章とは裏腹に、イスラーム世界の統一とは真っ向から対立するベクトルを有するものなのである。つまりOICの内実は、「相互に主権を尊重する」との美名の下に、加盟予告の支配者の間で結ばれた「互いの縄張りを侵さない」との「紳士協定」=イスラーム世界の再統合を阻止して分裂の現状を固定化し、既得権を守るためのカルテルである。そしてその機能はムスリム民衆の目からウンマの分裂の現状を隠蔽し、あたかも連帯が存在しているかのような幻想を与え、ウンマの連帯意識に適当なはけ口を与えることにある。
(『イスラームのロジック』講談社選書メチエ、2001年)
つまり、イスラーム共同体が成立しないのは「イスラーム共同体の擁護」を組織目的に掲げる組織が、実際にはウンマの分裂を固定化することによって既得権を守ろうとしているからだというわけです。
(p.17-18)
※ウンマとは、イスラームの共同体のことを指しています。
すでに記憶の隅に追いやられつつある「アラブの春」は、アメリカ型グローバリズムに染まり、既得権を守ろうとする各国の政権を打倒して、本来のイスラームの考え方に回帰するという民衆の運動でもありました。(国によって異なるので、すべてがそうではないようですが。)
ぼくは、「民主化」と聞いた時、それはつまり「西欧化」だと思ってしまいましたが、真逆だったようです。
古い宗教的な治政を固持する政権に対し、進歩的な民衆が不満の声を上げたのではなく、ライフスタイルに合わないにも関わらず、金儲けのために欧米化を進める政権に対し、もともとの政教一体型の暮らしに戻そうという運動だったわけです。
そして、本来のイスラームに回帰されて困る欧米は、介入を強め、「アラブの春」は泥沼化していきました。
イスラーム世界のことについて、我々が「よくわからない」という感想を持ってしまうのも仕方がない気がします。これだけ価値観が違うのですから。
我々は、理解の範疇を超えるものに対しては、悪い評価を与えがちです。そして、悪いものは排除しようと努めます。
あるいは、その逆かもしれません。理解が及ばないものを排除するために、我々は「悪」というレッテルを用いるのかもしれません。
「テロリスト」ということばを用いることで、彼らに対する我々のイメージは固定化してしまいます。なぜテロを起こすのか、という問いについては考えようとしません。
現政権は、理解が及ばない相手に「テロリスト」というレッテルを貼ることで、あくまで自分たちの価値観のみを正当化し、問題の本質に迫ろうとしていません。あまりにもこの世界を単純化し過ぎてはいないでしょうか。
今、起きている出来事を、「サイコなカルト集団が起こした凶悪事件」と考えてしまうと、本質を見誤ります。これは、「農耕文化」と「遊牧文化」の衝突であり、もうずっと昔から存在する、二つの世界を分つ強固な壁を、人類はまだ壊せずにいるということなのだと思います。そろそろ本質に目を向けるべき時代ではないでしょうか。互いに「悪」だと罵っても、なにも生み出されません。
およそ戦争というものは、
自らが理解できないものに対して、「悪」というレッテルを貼り、排除しようとすることで、生じてきました。
ぼくはそう思います。
だからまず、戦争を失くすためには、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の頭で考えるしかないのです。
自分の殻を破らないと、他者を理解することはできない、と思います。
PS
山崎雅弘さんという人のtweetが秀逸でした。
>この二日の大手メディア報道を通しで確認していると、二種類の「論理のすり替え」が使われ始めていると感じる。一つは「相手側の論理や価値判断を踏まえて対応する」ことが「相手の言い分を認める」ことになるという詭弁。そして「首相批判や政府批判は日本人を殺害した武装集団を利する」という詭弁。
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