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夢野久作『ドグラ・マグラ』:②「胎児の夢」

  • 執筆者の写真: krmyhi
    krmyhi
  • 2015年1月27日
  • 読了時間: 3分

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2、胎児の夢 理論

 まずは、どんな理論かという説明から。

 胎児の夢についての説明を、作中から引用します。

 人間の胎児は、母の胎内にいる十ヶ月の間に一つの夢を見ている。

 その夢は、胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき、数億年、ないし、数百億年にわたるであろうおそるべき長尺の連続映画のようなものである。

(中略)

 すなわち人間の胎児はおよそ十ヶ月間で、元始以来の先祖代々の進化の道程を繰り返すことになっているのであるが、その他の動物は概して、進化の度合いが低ければ低いだけ、その体勢に要する時間が短くなっているので、進化の度の最も低い・・・・すなわち元始時代の姿のままの、細菌、その他の単細胞生物は大部分、胎生の時間を全然持たない。

 この理論は、1のテーマ(こちらを参照)で扱ったことと大変関係があります。

身体に敏感な人は、よく「身体がいやがる」という表現を使います。脳みそで肯定していても、身体が否定する(あるいはその反対に、脳みそが抑制しようとしていても、勝手に体が動く)、ということがあるんですね。

 脳の意図に反して体が動いてしまうことを「野性的である」と言ったりもします。

 頭が「理論や科学を標榜するもの」なら、身体は「原始や動物性を標榜するもの」です。

 夢野久作的な説明にすると

 生物最古の生命体からの連綿とした記憶=「胎児の夢」を忘れてしまい、動物本来のあり方を失ってしまった頭と、「胎児の夢」を覚えている身体

という対比になると思います。

 この理論は、一見、奇想天外な夢野ならではの理論のような気がしてしまいますが、いろいろな人が似たようなことを言っています。

 例えば、人類学者の中沢と東の対談において、、、。

僕らが何かを恐れるというときは、ものすごく古い動物的な記憶で反応しています。だから、原発事故が起きたとき、核化学や社会学のレベルでの反応と同時に、とても深い生物学的レベルでの恐怖心が生まれました。

(『新潮』2014年9月号p113、中沢新一+東浩紀「原発事故のあと、哲学は可能か」)

 そして、人間から「身体感覚」というものが薄れつつある現代において、できるだけ自分の感覚的なものを信ずることは、重要なことだと思います。

 何となく嫌だな、と思うものには近づかない方が良い。これは、武道家の内田樹も言っていることです。彼が言うには、「選択を迫られる」ような状況に追い込まれる前に、危険を察知する能力が、人間には備わっており、そのセンサーを常に敏感な状態に保っておくことが、社会で生き抜くために重要なことであるらしいです。

生物学的レベルの「身体感覚」。それは、黒澤明が『生き物の記録』で描こうとしたことと同じなのではないでしょうか。『生き物の記録』でも、原子力を病的に恐れる主人公は、狂人として扱われますが、主人公の行動は、我々現代人の「身体感覚の希薄さ」の批判となっています。

 科学技術の進歩によって、人類の身体能力は拡張しました。これからも、どんどん便利な世の中になっていくと思いますが、「身体感覚」の消失は、人類に大きな危機をもたらすのではないかと思います。

 「胎児の夢」の影響を深く受けているが故に、精神病患者として取り扱われる呉一郎は、「生物学的レベルの身体感覚」を忘れながらも、涼しい顔して生活をする「健常者」への警鐘のようです。

 
 
 

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