岡崎京子『リバーズ・エッジ』:閉塞感’90ー浅野『虹ヶ原ホログラフ』との比較
- krmyhi
- 2014年11月17日
- 読了時間: 3分

「この作品は、現代人が抱く閉塞感を見事に描写した・・・」なんて常套句を未だに耳にしますが、「閉塞感」なんて言葉は、ぼくのお尻に蒙古斑があった時代から既によく耳にする単語でしたよ。他の表現はないんですか、と言いたくなる今日この頃。
劇作家・宮沢章夫によると、「閉塞感」なるものは80年代からすでに世の中を覆いつつあったそうで。90年代に出された岡崎京子の『リバーズ・エッジ』はそれを見事に表現した作品とのことです。当時、純文学の力が衰えていたのもあり、「文学性」を漫画に求めたおじさんたちが漫画を読み始めるきっかけとなった作品でもあるとのことです。(NHK Eテレ「戦後日本サブカルチャー史からの知識)
さて、今回は大胆にも『リバーズ・エッジ』と浅野いにお作品を比較してみようかと思います。
浅野いにお作品からは『虹ヶ原ホログラフ』をエントリーさせましょう。

分量が一巻完結で、オムニバス形式でない作品は、これくらいしか思いつかなかったので。
二つの作品に共通することは、「変わり種のディストピアもの」であるところです。また、どちらも学校が舞台となっています。
ふつう、「ディストピアもの」といえば、荒廃した世界の中で、主人公達だけがまともな精神を持っていて、果敢に生きていく、というジャンルです。『北斗の拳』のような世界観が典型だと思います。
しかし、岡崎京子や浅野いにおの世界はそれとは少し違います。主人公達が暮らす世界も、彼らのライフスタイルも、現実の世界とほとんど変わりません。しかしながら、その現実に似た世界に住む人物達がみんな少しずつ壊れているのです。ふつうの「ディストピアもの」が「壊れた世界」を描くものであるのならば、彼女等の作品は、「壊れた若者」を描くものです。
結論から言います。『リバーズ・エッジ』と『虹ヶ原ホログラフ』の大きな違いは、「家族のつながり」の希薄さです。
「リバーズ・エッジ」がどこか安心して読めるのは、家族の風景がきちんとあるからです。
それに対して、『虹ヶ原ホログラフ』にはろくな家庭が出てこない。浅野作品では、定番ですが、歯車が噛み合わなくなってしまった家庭がたくさん出てくるのです。しかも、「家族」がきちんと描かれるわけでもありません。バラバラになった家族の断片的な情報だけが物語に散りばめられています。そこにはすでに、壊れていても、壊れていなくても「家族」というものが意味をなさなくなった世界があります。
浅野作品の浮遊感は、家族という縛りのなさから来ていると思います。反対に、『リバーズ』の方は、家族や友人の縛りがあるだけ、強い「閉塞感」を感じます。浅野作品は、家族や友人とのつながりが希薄な分だけ、束縛・重圧はすくないけれど、理由のない孤独感、地面がなくなってしまったような不安感がいつもつきまとっています。
90年代と00年代の違いがそのまま、家族のあり方の違いに結びつくのかどうかは分かりませんが、やっぱり浅野作品の方が、現代的であるようにぼくは思います。絵柄も含めてね。
そして、『リバーズ・エッジ』では、高校が舞台だったものが、『虹ヶ原ホログラフ』では、小学校であることにも意味があると思います。世の中を覆う「不安感」や「どうしようもなさ」みたいなものは、すでに「子供の世界」という聖域さえも侵していることを、浅野作品は言っているのだと思います。
現代の閉塞感と、バブル末期の頃の閉塞感。ここ20年以上は日本中を閉塞感が覆っているわけですが、それはどのように変化してきたのか。(あるいは根本的には何も違いはないのか。)今回は「家族」という切り口で論じましたが、今後もいろいろな視点から検証してきたいテーマです。
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