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今野真二『正書法のない日本語』:正しい日本語をめぐって

  • 執筆者の写真: krmyhi
    krmyhi
  • 2014年11月4日
  • 読了時間: 3分

 「すべからく」という言葉を、長い間ぼくは間違って使っていました。どうやら、「すべからく」というのは、「すべて」「総じて」という意味ではなく、「当然〜すべきだ」という意味らしいですね。だから、学生はすべからく学業を第一とすべきだ という文章は、「学生は、当然学業を第一とするべきである」という意味らしいですね。漢文のままの意味なんだ。

 このブログでも何度か使っている表現だと思いますが、直しません。面倒なので。 

 さて、「ただようまなびや」で大友良英さんが「正しい日本語などない」ということを言っていました。今、我々が「標準語」としている言葉も、たかだか100年ほど前に、東京の山手あたりで使われていた言葉を、「標準語」としたに過ぎません。

 日本語というものを、もう一度学び直すために、この本を読んでみました。これは、「そうだったんだ!日本語」という岩波書店のシリーズの第1作目です。これから、このシリーズを読み漁っていこうと思います。

 本書では、仮名と漢字の使い方について、詳細な解説とともに日本語の表記法の歴史を概観できるようになっています。

 すでに皆様ご存知のとおり、日本語には3つの表記法があります。漢字と平仮名と片仮名です。現在では、我々はある規範に基づいてこれらを書き分けていますが、そのような規範が初めからあったわけではありません。

 現代は、漢字と平仮名の混淆文が主ですが、『万葉集』の時代は、「当て字」のようにすべての音を漢字で表わしていたし、明治時代は、漢字と片仮名の混淆文が主流でした。

 送り仮名についても、現在では、きちんとした決まりがありますが、もともとそんな決まりなんてなかった。ずっと長いこと、ルールがないまま、ふらふらと右に行ったり左に行ったりするように日本語の表記のし方は変化してきました。

 特に、ぼくが一番感じ入ったのは、和語に漢字を充てることによって、現代の人々は和語と漢語の別に、疎くなったということについてです。

 日本で生まれた言葉=和語は、初めは漢字では表わされていませんでした。そもそも、言葉を文字にすること自体がなかったのです。中国から文字ーつまり漢字が流入してきた時に、もちろん中国の語彙も一緒に輸入されたのですが、それとは別に和語もきちんと残しておいたことがまずすごい。

 基本的に、文字を持つ言葉に対して、文字を持たない言葉は弱い。アイヌ語というものは文字を持たない音声言語であり、それ故にいまでは絶滅の危機にさらされています。

 そして、さらにすごいのは、日本にもともとあった言葉=和語と、中国語で似た意味を持つ漢字を結びつけて、一つの言葉にしてしまったところです。自由ですね笑。

「山・ヤマ」とか「河・カハ」とかは、漢字としての読みは本来のものと全く違いますが、意味だけを採用して、日本語に組み入れてしまったんですね。

 本書では、日本語には正書法がないがゆえに、選択の自由がある言語であるということが、繰返し述べられていました。

 最後の締めの言葉がなかなか格好良かったので、ここで紹介させてもらいます。

現在は、具体的な、目に見えるかたちにきわめて敏感である。先の「表す」と「表わす」との混在が許されないのは、目に見えて不統一だからであろう。しかし、それは「送り仮名の付け方」というルールに抵触しているわけではなく、原理的に可読性を損なうものでもない。目に見えるかたちが不統一であっても、その背後にある表記原理からみればそれなりの一貫性があるということもある。言語を動かしている「原理」に目を向けると、そこに人間の認知のありかたを窺うこともできる。そう考えると、現代という時代は目にみえるかたちにとらわれやすく、背後にある「原理」にあまり目を向けない時代、つまり「原理」に弱い時代であるようにみえなくもない。

(p185)

 「正しい日本語」というものをめぐって、これからシリーズの記事を書こうと思っています。

 
 
 

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