古屋兎丸『ライチ☆光クラブ』:80年代における「父親像」の変化
- krmyhi
- 2014年10月19日
- 読了時間: 5分

飴屋法水率いる劇団「東京グランギニョル」が85年に上演した同名の舞台を、それに魅せられた古屋兎丸が漫画化したものです。広告宣伝は丸尾末広が行なっていました。グロテスクな漫画を描く丸尾末広の影響を大きく受けているのが絵柄から分かりますね。
ストーリーは、9名の「光クラブ」の少年達が少女を拉致するために、「ライチ」というロボットを生み出すというものです。独裁政治を行うゼラを中心に結束していた「光クラブ」ですが、だんだんとその中に不和が生まれ、血しぶき舞う惨劇が起こることとなります。
さて、80年代にこの内容がアヴァンギャルドであった点は、登場人物達の「性別の無さ」であると思います。キャラクターデザインからも分かるように、登場人物達の体のラインは、とても中性的です。また、ゼラと美少年ジャイボが愛し合う描写もあります。
光クラブには女学生が一名入っていますが、女子と言うよりも、なんだか女のふりをした男のような印象を与えます。それは彼女の残酷性と不自然な女言葉のためかもしれません。
とにかく、「光クラブ」の面々は性別が失われており、それは彼らがまだ「男」や「女」になりきれていない、少年少女であることを意味します。
彼らは少女・カノンを拉致・監禁し、女神として奉ります。彼らは一貫して、女子の神聖性に憧れを示していますが、実際は違うのだと思います。
この物語で語られているのは、男性性への渇望(あるいは拒否)です。少女に憧れ、女神として祭り上げるという行為は、男性性への憧れの裏返しであるのです。
この物語では、彼らがなぜ少女を拉致しようとするのかは語られていません。そしてなぜそのための手段がロボットを生み出すことなのかも。
本当のところ、彼らが憧れているのはロボット・ライチの方なのです。少女はその裏返しのものに過ぎない。
彼らの年齢設定が中学生くらいであるのは、彼らが性に目覚め始める頃だからです。またそれとともに大人への階段を昇り始める頃だからです。最後にジャイボが語るように、男子は声変わりがはじまり、より男らしくなります。この物語は、少年達の「男になること」、「大人になること」への葛藤の物語なのです。
ロボットが表象しているのは、屈強であることと、そして他者に従順であること。これは、実は世のお父さん像・サラリーマン像なのです。
彼らは「父親なるもの」に憧れながらも嫌悪感を抱いている。
多分これは、父親像の変化からくるものです。
昭和の父親像ーーつまり、身体的にも精神的にもマッチョで家を支配している父親像は、80年代はすでに失われつつあります。それは、世の中の父親像が「サラリーマン」的なものに移っていったからです。
精神面では、上司や妻に従順で社会的な発言権は弱まったが、それでも日々額に汗して家族を守るために格闘しているお父さんには「男らしさ」が残っています。
時代の流れに伴って「父親像」が変化することに対して、当のお父さん達だけでなく、彼らの子供達も大いに動揺しました。それまでロールモデルとされていたもの(あるいは反抗の対象となっていたもの)が姿を変えたからです。
少年達が思春期に入り、「性別」というものを手に入れていく中で、それまでロールモデルであった「父親像」が時代に伴って変化してしまったために、「憧れながらも嫌悪する」という戸惑いがあるわけです。
当時代的なお父さん像が、従順でありながら屈強なロボット・ライチであり、それを支配下に置き、少女を崇め奉るという彼らの振る舞いが、「戸惑い」を表象しています。
「お父さん像の変化と、それに憧れながらも戸惑う少年達」というテーマの他に、もう一つ、この物語から読み取れることがあります。
それは、身体感覚の希薄化です。
AKIRAもそうですが、この時代の漫画や映画には、過激な暴力表現、グロテスクな表現がたくさん見られます。丸尾末広の漫画家デビューも80年です。
これは希薄化していく身体感覚を、失っていく身体感覚を何とかつなぎ止めようとする表現者達のあえぎのように見えます。
「生」の実感を得るために、自らの体を傷つけるように、身体に対する感覚がどんどん鈍っていく時代の中で、なんとか自分の身体への意識を鋭く保ち続けようとするがための過激表現なのではないでしょうか。
80年代はまだ携帯もパソコンも普及していません。しかし、バブルに向かって経済が過熱していく途上で、物質的な豊かさが加速度的に上がっていきます。大量生産、大量消費の世の中にあって、自分が実際に身体を動かさなくても食べ物が手に入ったり、目的地へたどり着けたりすることが、身体の希薄化をもたらしたのだと思います。(それには、70年代のマックの日本上陸や、角栄の「列島改造論」による交通網の発達が影響していると思われます。)
この物語は、自分の作ったアンドロイドに殺されるという「フランケンシュタイン・コンプレックス」そのままの物語構成になっています。
ぼくは、グロテスクな表現や暴力表現と、「アンドロイドもの」の親和性に気がつきました。それはどちらも生身の身体に大きなコンプレックスを抱えていることからくる表現方法なのです。
80年代から徐々に始まった、「父親像の変化」(父権性の失墜)と身体感覚の希薄化には大きな関係があるのだろうと思います。しかし、まだそれはぼくの言葉で説明できない。これからの課題ですね。
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