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纐纈あや『ある精肉店のはなし』:部落差別の特殊性

さて、今回は屠殺業(とさつぎょう)についてです。

ファストフードネイションを見てたら思い出しましてね。

この映画にはぼくも制作費をカンパしました。

纐纈あや(はなぶさあや)という方が監督なのですが、目の付け所がとてもいいですね。現代の影の部分を、決してペシミスムに陥らずに映している点が好感を持てます。

ドキュメンタリー作品を撮るものとして、できるだけ脚色はしないよう気をつけているのでしょう。

(ぼくは脚色してあるドキュメンタリーも好きですが。)

 日本において、屠殺業に従事する人々は、昔から身分差別と職業差別にさらされながら生活してきました。屠殺場のある場所は、昔被差別部落であったことを表していると言っても過言ではないです。(今でも部落差別が残っているか否かは地域によって異なると思いますが。)

 同和教育に対する是非が問われることがありますが、ぼくの大学時代の先生は盛んに同和教育の必要性を訴えていました。「寝た子を起こすな」の理論で部落差別から遠ざけていては、歴史を無視することになるし、なにより現在の日本の同和問題に目を背けることとなります。ぼくの先生は、今でも差別部落は残っているという主張でした。ぼくは、身近では部落差別を感じたことはありませんが、広い日本、どこかにまだ残っている気はします。(天皇制を基にした身分差別というものはまだ確実に残っていると思います。)

 差別に対しての教育は必要だが、敢えて部落差別を用いる必要はないと主張する人々もいます。彼らは同和教育による差別の再生産を危惧しているわけです。ぼくも差別の再生産に関しては、注意すべきことだと思います。ただ、ここに部落差別を扱うことの重要性が隠されているようにも思います。

 世の中に「差別」は星の数ほどあります。女性差別、障害者差別、老人差別、人種差別、、、そのなかで、部落差別が特異な点が一つあります。それは「根拠がよくわかっていないこと」です。その場所に生まれ、生活しているだけで差別の対象となるというのは、とても不可解ですよね。「差別」というものは須らく理不尽なものではありますが、そのなかでも部落差別はなぜ差別の対象となるのか、理由がわからないだけに特に理不尽に感じてしまいます。

 もちろん、理由のいくつかは推測できます。「差別の対象となっていた職業(皮革業とか芸能)の職業集団が住んでいた場所だから」とか「身分差別(えた・ひにん)が先にあり、居住地を制限したため、その土地の人が差別されているのだ」とか。でも、結局のところ、なぜ部落差別というものが生まれたのか、はわかっていないんです(地域ごとに様々な根拠で差別の対象となったので、一概に言えないということかもしれませんが)

 つまり、差別をしている側は、「理由はよくわからないけど、差別をしている」のです。

 部落差別を知ることで、ぼくらが学べることは、「人間は特に理由も無いのに他人を差別できる」ということです。部落差別には目に見える理由がないからこそ、同和教育反対派の人々は差別の再生産をことさらに恐れるんじゃないかと思っています。だけど、差別問題で本当に重要なのはその点ではないでしょうか。

 「人間は理由無く他人を差別できる」ということは、「誰もが、差別の対象になる」というだけでなく、「誰もが差別の主体になりうる」ということです。

 「差別について教育することで、再生産が起こってしまう危険」から逃げていたのでは、自分が差別の主体になりうるということを自覚できません。

 自分が差別の主体になるかもしれない、あるいは、なっていることに自覚的であることが、人間が差別と付き合っていくための一番大切なことだと思います。

が常にある、という状況にあることは、子供だけでなく、教師にとっても差別について考える機会になると思います。

 確かに、教え方次第で「差別の再生産」となってしまう懸念もありますが、「人間は特に理由もないのに他人を差別できる」ことを教えるためには、「部落差別」というものは教材としてもっとも適したものだと思うのですが。

 それでは〜

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