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三島由紀夫『金閣寺』:どもること

  • 執筆者の写真: krmyhi
    krmyhi
  • 2014年10月8日
  • 読了時間: 4分

実は三島は初体験なのでした。

 残念ながら、ちょっと自分には合わない文体でしたなあ。

 今回は、主人公の最大の特徴である「吃音」について焦点を当てて書いてみたいと思います。

 主人公は自分の吃音に大きなコンプレックスを抱いており、自分が嫌いな理由の一つとなっています。正・美の象徴としての金閣に対照して用いられているのが主人公の吃音なのです。その対比を一番端的に表しているのが次の部分です。

私には未知のところに、すでに美といふものが存在しているといふ考へに、不満と焦燥を覚えずにはいられなかった。美が確かにそこに存在しているならば、私という存在は、美から疎外されたものなのだ。(p123)

 主人公は、自分が美と隔絶された存在であると感じ、それゆえ美=金閣寺に過剰な思い入れを持つわけです。

 「どもり」という言葉を見て、内田樹先生のエピソードを思い出しました。彼も以前は吃音であったそうです。

むかし小学生の頃、私はかなりひどい「どもり」だった。ところが、風邪をひいて、声が「自分の声ではないみたい」になると、なぜか「どもり」がぴたりとおさまる、ということにあるとき気が付いた。

そのままぼけっと成長して、「どもり」もいつのまにか治って、ずいぶんおじさんになったあと、レヴィナス先生の『逃走について』というテクストを読んでいるときに、その理由が分かった。

私の「どもり」は「私が私であることの息苦しさ」に苦しみ、「私が私の声でしゃべっている不快さ」から一刻も早く逃れようと、している「逃走」のあえぎだったのだ。(内田樹ブログ「とほほの日記」2000年2月4日)

『金閣寺』の主人公の吃音が、内田先生と同様に「自己同一性」からの「逃避行動」だと考えると、少しばかり物語が理解できます。

 さきほど、「金閣寺」と主人公「私」の対比が描かれていると書きましたが、美しく、正しい「金閣寺」と醜く、悪である「私」という構造を担保しているのは何なのでしょうか。

 それは、不変の「金閣寺」と常に変化する「私」という構造だと思います。物質として、また「美」そのものとして常に存在する金閣寺。それに対して、主人公の中には様々な人格が存在します。普段は大人しいのに、米兵の言いなりになって女の腹を蹴る凶暴な人格。鹿苑寺の次の住職になることを望む母のあざとさに嫌悪感を抱きながらも、いつしか自分もその考えを採用している打算的な人格。女を欲望しながらも、いざとなると結局不能に陥ってしまう繊細な人格・・・。

 さまざまなエピソードを通して、「私」の「統一されていない人格」が語られています。そして「私」は、自己同一性に夢見るあまり、不変である金閣寺に恋い焦がれるのではないでしょうか。

(しかし、頭では自己同一性を欲望していても、身体的にはそうではありません。自己同一性を求めれば求めるほど、逃避行動である「吃音」が現れてくるのです。)

終盤、主人公は、「金閣を焼かねばならぬ」と考え、次のように思考しています。

 なぜ私が金閣を焼こうという考えより先に、老師を殺そうという考えに達しなかったのかと自ら問うた。

 それまでにも老師を殺そうという考えは全く浮かばぬではなかったが、忽ちその無効が知れた。何故ならよし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、闇の地平から現れてくるのがわかっていたからである。

 おしなべて生あるのものは、金閣のように厳格な一回性を持っていなかった。

一般的には、人間こそがかけがえの無いものであり、物質は代替が可能である、と考えることが多いですが、主人公はそれを逆に考えています。面白いですね。

一番ラストでの描写が印象に残ります。

気がつくと、体のいたるところに火ぶくれや擦り傷があって血が流れていた。手の指にも、さっきとを叩いたときの怪我とみえて血が滲んでいた。私は遁れた獣のようにその傷口を舐めた(p260)

 なぜここで身体の描写を入れたのでしょうか。それは燃える金閣と傷ついた自分の体の対比から、あることに気がついたからです。

 金閣はその厳格な一回性のために、もう元に戻ることは無いが、人間はもう一度やり直せることに気がついたのです。主人公の心が解放されたのは、そのためです。一人の人間がたとえ死に絶えたとて、金閣が失われるのと比べたらどうってことないということに改めて気付かされたのでした。

 その気楽さが彼の心を解放し、彼の「自己同一性への希求(あるいはーからの逃避)」は途絶えました。「一仕事終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと」思ったというのは、ある種の楽観性が含まれている気がします。その様な楽観性は、それまで主人公が持つことがなかったものです。自己同一性への幻想に心を絡めとられて「こんなのは自分じゃない」と思っているうちは、そのような自己肯定的な生への欲求は生まれなかったでしょう。

前半で散々主人公の自我や美に対する執着心を書いておきながら、最後の最後で「でも結局、人間死んだらみんな同じだよね」と放り出すような頽廃的な楽観性がこの作品の特徴なのかなと思いました。

 
 
 

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