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伊丹十三 『マルサの女』:宮本信子という「座頭市」

  • 執筆者の写真: krmyhi
    krmyhi
  • 2014年9月24日
  • 読了時間: 5分

 伊丹十三の「〇〇の女」シリーズは面白いですね。痛快です。

どの作品も毎回、ストーリー展開は一緒です。

 業界のエリートキャリアウーマン(宮本信子)がうだつの上がらない男達を助けて、悪者(主に伊東四朗)を懲らしめる、というストーリーです。「マルサの女」はその舞台が国税庁であり、「ミンボーの女」は法律事務所であり、「スーパーの女」はスーパーが舞台なのです。(「スーパーの女」だけは、ストーリーの構造が少し違いますが、それは後ほど。。)

 ストーリーはワンパターンですが、どの作品も面白い。ぼくは「スーパーの女」、「ミンボーの女」、「マルサの女」と公開順とは逆に見ていったようですが、どれも業界の裏側まで取材してあるといった感じで、完成度が高いです。ユーモアに溢れているところも良いですね。

 今回は、なぜ「〇〇の女」シリーズが痛快であるのか、「座頭市」を用いて検証してみたいと思います。別に「座頭市」じゃ無くても良いのですが、一度授業で「座頭市」について発表したので。

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 「座頭市」といえばやっぱり「勝新太郎」。ルー大柴言うところの「ヴィクトリーニュー太郎」ですね。あの渋さは一度見たら忘れられません。

 こちらのシリーズもパターンは同じです。

座頭(諸国を行脚してあんまをする)で生計を立てている「市」さんが、行く先々でトラブルに巻き込まれ、結局一番最後は、周りの悪役を全員ぶっ殺して終わります。

 「座頭市」の物語のキーワードは、「抑圧」です。さらに言えば、「抑圧」→「解放」という構造が、観客に快感を与えるのです。

 めくらを理由に馬鹿にされ続けてきた市が、ラストは鬼の剣客に大変身して悪人をぶった切る。つまり、「座頭」という被差別民への「抑圧」があるからこそ最後の殺陣で悪役がバッサバッサとぶった切られるシーンが「解放」となるわけで、もともと市が周りの人々から一目置かれるような存在であったら、「座頭市」の魅力はほとんどゼロに近いくらい消え失せてしまうでしょう。

 水戸黄門も、ラストまでは印籠を出さずに(正体を現さずに)老人への差別を甘んじて受けています。(黄門様の場合は、周りに正体を知る助さん角さんがいるので「座頭市」ほどのダイナミズムを生み出せませんが、、、)

 座頭という職業は想像がつくとおり、差別の対象でした。もちろん、現代の「差別」の定義とは異なりますが、やはり目が見えないという身体的特徴は差別の対象となっていました。

 目が見えない男が剣を振れるわけが無い、という「常識」が打ち破られることに観客は魅力を感じるのです。

 「マルサの女」に言い換えると、男性中心主義の学歴社会で、女性が男に一泡吹かせるなんて考えられない、という「常識」が裏切られることで、この映画は多くの人々の心をつかみました。

 女性がさまざまな業界で活躍する現代においては、「常識」が当時とは異なっているため、面白さは半減してしまいますが。

 それまで抑え付けられ、鬱屈していた感情が一気に解き放たれた時に、人間は快感を感じるものなのです。

 繰返しになりますが、2つのストーリーの“キモ”となっているのは、主人公が差別の対象となっている存在であるということです。

 このような構造は、様々な作品に見られます。歴史の中で長いこと「子供」を搾取の対象にしてきたヨーロッパでは、19世紀の最も子供の搾取が激しい時代に「オリバーツイスト」が書かれます。

 「〇〇の女」は1980年代、日本で女性差別をなくそうとする運動が起こってくる時代です。

 多分、座頭市が公開された1960・70年代は、障害者差別に対する意識が、日本人の中に醸成されてきたのと時を同じくしているでしょう。

 これらの作品は時代の要請があって生まれてきた作品なのです。多分。

 だから、できるだけタイムリーで読んだり、見たりした方が、よりカタルシスを感じることでしょう。

※ただし、一口に差別と言っても、詳細に見ていくとかなり構造が異なっています。「子供」や「老人」に対する差別は、誰しもの来し方行く末でもあるため、女性差別や障害者差別と同列には扱えません。同じように、女性差別や障害者差別も、身体に起因するというある程度由来がはっきりしている点で、由来のはっきりしない部落差別とは一線を画しています。

 ということで、「〇〇の女」シリーズは、現代版「座頭市」なんです。

 ただ一つ、スーパーの女は少しだけ毛色が異なりました。

 スーパーの女の主人公は、どこにでもいるような「主婦経験のある女性」です。いわゆる「専門知識」は必要ない「主婦としての知見」で、赤字続きのスーパーを見事に復活させるのです。主婦なら誰もが気がつくようなこと、考えるようなことが経営している男達には全く分かっていない、というところが大変ユーモラスでかつシニカルです。

 これは、「主婦」を一つの職業として認めようという思想なのかもしれません。(だとすると、税金の配偶者控除の問題などへの提言ともとれます。)「スーパーの女」は「主婦としての女性」をフィーチャーしていた点で、もっとも刺激的な作品であると言えるかもしれません。

 「ミンボー」「マルサ」共に、専門知識を得たキャリアウーマンが、男社会の中で男顔負けのはたらきをして、男の鼻をあかす」という内容でした。

 しかし、これでは主人公はあくまで「男性化」した女性なだけだという見方もできます。あくまで学歴社会という男性中心主義社会の中での物語だからです。

 しかし、「スーパー」は主婦が主役の場所です。ここを舞台に設定したことで、男性中心主義社会とは別の空間が世の中にはあるということを、世間に知らしめることができました。男性中心主義社会を相対化するという意味では、「スーパーの女」が一番効果的な舞台設定なのかもしれません。

 ちょっと話が広がりすぎてしまいました。それでは〜

 
 
 

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