庵野秀明『エヴァンゲリオン新劇場版』:「自己責任」と「不条理」
- krmyhi
- 2014年8月26日
- 読了時間: 5分

先日、イラクで日本人が人質にされているとの報道がありました。ぼくは、エヴァ祭り(日テレ)を見ながら、「自己責任」という言葉を思い出していました。2004年にイラクのファルージャでボランティアや報道関係者3名が武装集団に拘束され、人質となりました。犯行グループは人質解放の交換条件として、自衛隊のイラクからの撤退を挙げました。
結局、被害者たちは無事に帰国することができましたが、帰国後、彼らに対して、一部の人から「自己責任」の名の下に冷たいことばが投げかけられました。「国の発した退避勧告を無視する者として自業自得」「自己責任を知らぬ無謀な行為」「救出に国が要した費用を支払わせるべき」などの言葉です。
そのような人々の「国に迷惑をかけるな」という言葉は、あまりにも「国」というものが実在しているかのように語る点で、好きになれません。
以前も書きましたが、「国」というものは人々が幸せに暮らすための単なる制度であり、実体があるわけではありません。
「国に迷惑をかけるな」でなく「オレあるいはオレたちに迷惑をかけるな」という言葉遣いの方が適当だと思います。
そのように考えること自体は悪いことだとは思いません。我々国民のさじ加減で、助けてもらえる人々もいるし、見捨てられる人々もいます。
ぼくが怖く感じるのは、「自分」と「国」とを分けて論じることで、あたかも「国」という制度が実体を持ったものであるかのように振る舞うことです。「国」とはもともと存在する他者ではなくて、我々が作り出した言うなれば我々の一部なのです。
閑話休題。今回、ぼくが言いたいのは、「自己責任」という言葉自体が悪いということではありません。それは確かに重要な概念だと思います。
ここで考えたいのは、「自己責任」という言葉を投げかけた相手が、失敗して窮地に陥ってしまった時に、我々はどのように振る舞うべきなのか、ということです。
「自己責任」の名の下で、被害者たちを批判した人々に対して、「自己責任」という言葉はまるでブーメランのように戻ってくるようにぼくは思います。
つまり、危険を覚悟で活動をしていた人が命の危機に立たされた際に救うか救わないかは、まさに我々の「自己責任」ではないでしょうか。どちらを選ぶかは完全に我々の自由です。
それで助けなかったとしても、そこまで倫理的にもとっているわけではないとぼくは思います。だって彼らは危険を承知で行ったのだし、我々は彼らを引き止める権利はないのだから。
しかし、だからと言って彼らを見捨てるのは、ぼくは間違っていると思います。そういう人々を見捨てるのは簡単ですが、そうやって個人の命を軽んじていれば、国はどんどん悪くなっていきます。国を良くするのも、悪くするのも、まさに「自己責任」なんです。なぜなら、国とは実体のないもので、直接自分自身を指す言葉でもあるからです。
さてさて、ようやくエヴァンゲリオンの話になります。エヴァで、とても印象的に残った場面があります。戦うことへの恐怖から逃げそうになるシンジに対して、ミサトが「あなたが選んだ道でしょう」と叱咤する場面です。
エヴァのメインテーマは、シンジの「逃げちゃダメだ」という台詞で表される少年の葛藤ですが、この前提となるのがミサトの「あなたが選んだ道でしょう」という言葉です。つまり自己責任論。
この物語では、それがデフォルメされていて、なぜか主人公のシンジが勝手にパイロットに選ばれ、他の人では替えが効かないという状況に置かれています。もし自分が逃げてしまえば、同じく14歳のレイが傷を負わなければならないという、究極的な状況に主人公を追い込むことで、「自己責任」がもっとも鋭角化された世界になっています。
「自己責任」の名の下に、あくまで彼らは大人と同じように扱われるという点でかなりシビアな状況に置かれています。この「不条理」と「自己責任」が物語の軸となっていて、それゆえこの物語は現実を映している物語なのです。
2004年4月の日本に置き換えると、エヴァで語られているのは、助けられた被害者側の「自己責任」ではなくて、彼らを助ける側(=我々)の「自己責任」なんです。
自分は悪くないのに誰かを助けるために税金を使わなければならないという不条理。そして、万が一その現実から逃げても、傷つくのは自分ではない。
2004年4月に日本国民が置かれていた状況と、シンジの置かれている状況とは全く同じです。重要なのは、エヴァが問うている問題は、人質となった被害者たちの「自己責任」ではなく、助ける側の「自己責任」だということです。
しかし、シンジは結局その不条理を受け入れて初号機に乗り込む。彼はその不条理を自分の使命であると考えるわけです。
「不条理」を「使命」だと考えて、立ち向かうことができること。それが大人の第一条件であることを示しています。これは世の中の全ての成長譚が同じ構図になっていることからも分かります。『海辺のカフカ』も「ハリーポッター』もそうなっています。主人公が自分の身に降り掛る「不条理」を「使命」や「運命」だと見なしてきちんと向き合うことにより、子供は大人へと成長するのです。
エヴァンゲリオンを少年の成長譚である、と言うことについては、誰も異を唱えないと思いますが、その根拠となるのが「不条理」と「自己責任」なんです。
そう考えると、なかなか深い物語ですな。
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