旅行記「水上温泉郷」:風景と文学
- krmyhi
- 2014年8月17日
- 読了時間: 3分
8月9日、10日で水上温泉に行ってきました。生憎、台風の影響で予定していたキャニオニングはできませんでしたが、ラフティングはいつもよりスリルが高まって楽しかったです。
せっかくなので、行ったところ、感じたことをメモしておきます。
諏訪峡は利根川の景勝地のひとつです。水上では日本で唯一?橋の上からバンジージャンプができます。バンジージャンプが行なわれる諏訪峡大橋もここにあります。
与謝野晶子の歌碑が置かれていました。水上温泉は、文豪達に愛された土地であり、与謝野夫婦以外にも、若山牧水、太宰治などが訪れたと言われています。
与謝野晶子歌碑から、気に入ったものを抜粋しましょう。
小日向の湯場の灯(ひ)ともる刻ならん
川の暗きに山李(やますもも)散る
朝焼けも夕映えも皆をさめたる
利根水上の里の紅葉
これらの歌碑は諏訪峡の遊歩道沿いに置かれているのですが、川を眺めながらこのような文学作品に触れると、想像力がかき立てられていいですね! ぼくが行ったのは夕暮れ時でしたが、朝明け時や、夜の灯がともった風景を想像して、美しがることができます。
また、想像力がかき立てられると同時に、記憶力も増幅するみたいです。その時に見た風景が、パッと心に焼き付きついて、この詩を詠むと心にその風景が浮かび上がります。
写真に収めれば簡単にその風景を思い出すことができますが、逆に写真を見ないとどんな場所に行ったか思い出すことができない、ということはぼくには多々あります。ぼくの記憶力が悪いだけかもしれませんが。
それに対して、詩によって心に焼き付いた風景は、詩を諳んじればいつでも記憶の中から取り出すことができます。
そのような記憶方法は、大変個人的なものであり、写真のように他の人と共有できるようなものではありません。しかし、その共有できない性質こそが、文学の美点であるように思えます。
良い文学作品というものは、映像作品よりもリアリティを持っています。
例えばストーリーの中に「路地」が出てくるとします。映像作品だと「路地」のイメージが固定化され、誰かが用意した「路地」を使って物語の中に入っていかなければなりませんが、文学だと、自分の心の中にある「路地」を使うことができます。自分の記憶の中の「路地」を使うことで、すんなりと自分が物語の中に入っていくことができるのです。
映像にしてしまうと、あまりに具体度が上がってしまい、そのイメージが自分の感覚に合わないものだと、「映像が邪魔する」という状態に陥ります。
話が逸れましたが、ぼくはこの頃、旅に行くと川柳や短歌をつくるようにしています。カメラの代わりにうたで風景を切り取る。やってみると結構面白いですよ。
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