花沢健吾『ボーイズ・オン・ザ・ラン』:モチーフとしてのボクシング
- krmyhi
- 2014年8月4日
- 読了時間: 4分
今更ながら、ボーイズ・オン・ザ・ランを読んでみました。タイトルの訳は「逃走少年」でいいでしょうか?「屁っ放り少年」?
ストーリーはうだつの上がらない三十路前の男が、彼女を作ろうとしては、裏切られ(他の男に盗られ)、その女性を奪った酷い男に勝負を挑むという、ストーリーです。金城一紀『フライ、ダディ、フライ』をさらに独りよがりにしたような感じです。
自分の鬱屈した感情を暴力で発散させようとする短絡的な考えが、実に漫画というメディアと相性の良いストーリーでした。ストーリーが分かりやすいぶん、男は感情移入しやすいのではないでしょうか。
さて、本題に入りましょう。主人公は、憎い男を倒すため、又逃げ続けてきた自分を変えるためにボクシングを始めますが、なぜボクシングじゃないといけなかったのか、というのが今回のテーマです。
喧嘩で勝つためだけなら、空手だっていいし、テコンドーだっていいし、(憎き相手が使っていた)カポエラだっていいわけです。笑
しかし、花沢はボクシングをモチーフに選んだ。これはボクシングに他のスポーツや武道が持ち得ない、文学的意味合いが備わっているためです。
ボクシングが文学や映画などで取り上げる場合、そこには必ず他のスポーツや武道とは異なるイメージがつきまとっています。
他のスポーツや武道ーー例えば野球や陸上競技、空手や剣道などーーが文学的モチーフとして使用される場合、それらは大概「スポ根」的物語となるわけです。ボクシング以外の競技は、青春・努力・部活・仲間といった言葉と相性がいいですね。反対に、ボクシングにはもっとダークなイメージがついて回っています。これには、ギャンブル・孤独・血・廃人など、生々しく暴力的な言葉と相性がいいのです。
また、ボクシングが語られるときは、なぜか生業として、職業としてのボクシングが語られます。新聞配達やその他厳しい肉体労働に耐えながら、ボクシングでわずかなファイトマネーを得る。それでもいつかはベルトを掴んでやろうと、自分を追い込む。みたいなボクサー像が定番ですね。
小説「ボックス!」や漫画「はじめの一歩」など、近頃は例外的なものも出てきましたけど、やっぱり数としては圧倒的に少ない。最近ではタレントとして活躍している内藤選手も、なぜあれだけ注目されたかと言うと、私達のボクサー像とは異なるキャラクターだったからです。やっぱり、文学作品で登場するのは、「不良・やくざ者」としてのボクサーであり、内藤選手の様な「いじめられっ子、人当たりの良い人」ではないわけです。簡単に言うと、(実際はもちろん違うと思いますが)我々の持つボクサーのイメージは「はじめの一歩」よりは「明日のジョー」であり、「内藤大助」よりは「亀田大毅」であるわけです。
これは、他のスポ根モノとはかなり対照的ですよね。他のスポ根モノはだいたいにおいて、登場人物の生活臭を限りなく消すわけです。出来るだけ「競技」と「カネ」が結びつかない方がいい。そっちの方が純粋なスポーツへの愛や仲間との友情、努力の喜びみたいなものが描けるからです。そのため、ジャンプのスポ根モノは須らく「部活動」ですよね。小説でも似た様なもので、スポ根で売れたものは「バッテリー」や「一瞬の風になる」など、やっぱり部活ものですね。近頃は「GIANT KILLING」など、職業としてのスポーツが題材でも、売れるようになってきましたが、それでもやはり、ボクシングほどドロドロしたイメージはつきまとわない。
では、ボクシングの文学的意味合いはどんなものかと言うと、ぼくは「敗者の美学」だと思っています。
学歴もなく、就職もきちんとできなかった不良少年が、一攫千金を夢見てボクシングを始める。予想以上に過酷なトレーニングに予想以上に少ないファイトマネー。友達も彼女もいない、金もない状況で、それでもいつかは頂点を取ろうと、努力していく。
社会的に「やくざ者」として虐げられる存在のものが、文字通り自分の命を削りながら、今まで見下してきた者達以上の成功を目指す。それが文学で語られてきたボクシングなのです。
実際、多くのボクシングモノの作品で主人公は敗北します。「あしなのジョー」だって真っ白に燃え尽きるわけですし、寺山修司の「あるボクサーの死」という詩も、安部公房の『時の壁』も、敗北していくボクサーを描いています。
ボクシングは文学の中では、「スポーツ」ではなく、「生き様」なんですね。学歴もない、きちんとした職もない男が、それでもいつかはチャンピオンになって大逆転するんだ、という心意気で孤独ながらも虎視眈々と上を目指す。そして、その夢は叶わずに死んでいったり、廃人になってしまったりするけども、それも含めて文学的な美しさがあるわけです。
長くなってしまいましたが、花沢は上記の様な意味が「ボクシング」には含まれているからボクシングをモチーフにしたのだと思います。何の取り柄もなく、やる気もない、平凡なサラリーマン。女も盗られ、喧嘩にも負けるダメな男。それでも何か全力になれることを見つけたい、守るものを持ちたいとする主人公の心情は、まさに一発逆転をねらう「ボクサー」の生き様と重なり合うのです。
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