ヒッチコック『サイコ』:「統一された人格」という幻想
- krmyhi
- 2014年7月11日
- 読了時間: 4分
こんにちは。サスペンスの巨匠・ヒッチコックの代表作・サイコを見ました。ヒッチコック作品では、以前に「レベッカ」を観ており、それもストーリーが秀逸でした。
昔の映画は今と違って、一人の人物の長い独白だとか、同じ画がずっと続くことが多いので、ところどころ眠くなってしまいました。笑。
今回は、かなりネタバレなので、ご注意ください。
今回の作品の一番面白かった点は、犯人のノーマンが多重人格者であったということでしょう。彼は重度のマザコンで、母親を愛するあまりに母親に対して嫉妬心を抱き、母親の愛人と母親を自らの手にかけてしまいます。そして、そのショッキングな事実から目を背けるかのように、ノーマンの中には、「ノーマンの母親」という人格が生まれてくるのです。
この大ネタの前提となっている命題は、「一人の人間は、一つの人格しか持ち得ない」というものです。
ノーマンを逮捕後に事情聴取した精神科医が以下のように語ります。
「・・・心に2つの人格が住み着くと、必ず葛藤が起こる。戦いだ。ノーマンについては、戦いは終わった。強い方の人格が勝ったんです。・・・」
心の中に複数の人格を持つことがイコール「精神異常」であるように語られていますが、本当にそうでしょうか。自分の中で、違う考えをもつ自分と戦いが起きることって普通にありませんか?
多分、ぼくが思うに、心の中に複数の人格を持つこと自体は普通なことだと思います。だから、「精神分裂」というものは、あくまで程度問題ではないでしょうか。
「一人の人間は、一つの人格しか持ち得ない」という考えは、今の世の中では「常識」となっています。
一昔前に「キレる」という言葉が出てきたのも、この考えを前提としています。まるで別人になったかのように怒り狂うことが「不自然」と感じるのは、一人のひとの中の別の人格を否定しているから生まれてくる考え方です。
なぜ、これほどまでに、「一人の人間には、一つの人格のみ」という考え方が世の中を覆うようになったかを考えてみると、「自分らしさ」という言葉と深い関係がありそうな気がします。
「自分らしさ」という言葉も、自分の中の唯一の人格を前提とした物言いですが、このような言葉が流行ったのには、ある理由があります。
「自分らしさ」という言葉がフィーチャーされるようになった理由は、それ以前の世の中に、「母親らしさ」や「男らしさ」というもので、個人を縛り付ける風潮があったためだと考えられます。そのような社会的役割のラベリングに嫌気がさした人々が多かったからこそ、「自分らしさ」という社会的役割から解放された言葉が流行るようになったんですね。「(社会的役割)+らしさ」というもののカウンター概念として、「自分らしさ」という言葉が大々的に使用された訳ですね。
そして、今日では、「自分らしさ」や「自分探し」というワーディングさえ、あまり聞かないようになりました。みんな、「結局それって何なの?」って考えるようになってきたのではないでしょうか。
我々が、そのように、「自分らしさ」や「自分探し」というワーディングに疑問を持つようになった原因は、「自分には、ある一つの統一された確固たる人格が本当にあるのか」という疑問を無意識的に考えるようになってきたからではないかと思っています。
今回のこの視点も、内田樹のウケウリな訳ですが、彼はこの「統一された人格」というものについて、コミュニケーション論として展開しています。最後にそれを少しばかり紹介して今日はお別れです。
「・・・近代のある段階で、このような『別人格の使い分け』は、『面従腹背』とか『裏表のある人間』とかいうネガティブな評価を受けるようになった。単一でピュアな『統一された人格』を全部の場面でつねに貫徹することが望ましい生き方である、ということが、いつのまにか支配的なイデオロギーとなったのである。・・・相手の周波数に合わせて『チューニング』する能力がなく、固定周波数でしか受発信することができない。情報感度のきわめて低い知性を大量に生み出している。」
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