押井守『スカイ・クロラ』:②代理戦争のリアリティ
- krmyhi
- 2014年6月30日
- 読了時間: 4分
こんにちは、前回に引き続き、『スカイ・クロラ』を用いて戦争の話をします。この物語の設定について、引っ掛かったもう一つのところは、「代理戦争によって平和がもたらされている」という点です。すでに説明しましたが、この物語の世界では、戦争請負会社によって戦争が行なわれ、そのおかげで民衆は平和に暮らしています。そして、戦争において実際に戦うのは、「キル・ドレ」と呼ばれる不老の少年少女です。彼らは肉体が死ぬと、記憶などは失われますが、性格や戦闘技能などは、新しい「キル・ドレ」に引き継がれます。まあ、分かりやすく言えば綾波レイですな。
前回例に挙げたように、この世界の民衆の間では、キル・ドレによって平和を維持できているというのが、一般常識になっているようです。しかし、そのような代理戦争で平和は達成できるのでしょうか。
答えは「ノー」だとぼくは思います。
なぜなら、戦争は「代理人」の死で終わらせることができるような甘いものではないと思うからです。物語世界で、キル・ドレは民衆の代わりに戦争を行なう存在であり、彼らは簡単に相手国のキル・ドレを殺し、殺されます。
彼らには人権があるとは言えません。たとえ、自国が戦争中だとしても、人権を持たない人々の殺し合いが行なわれたところで、民衆はどこまで自分の国が戦争を行なっている、というリアリティを感じるでしょうか。ぼくは、ほとんど感じないだろうと思います。民衆にとって、キル・ドレは「死んでも良い存在」であり、そんな人権の保障されない人達の命をいくつかけたところで、戦争が収まるとは思いません。
代理戦争というものは、代理者間だけの戦争で完結するなんてことは絶対にないと思います。必ず生身の、「人権」を持った人々を巻き込むこととなるでしょう。
この予想は、かなり自信を持って言えます。人間はそれほど残酷な生き物です。だって、今だって集団的自衛権が可決されれば自衛隊の人達が外国で人を殺したり、殺されるかもしれないというのに、多くの人が無関心です。もともと人権が保障されていないキル・ドレなら、より一層我々は無関心にふるまうでしょう。
ローマのコロッセオで奴隷の殺し合いをしたり、戦争時に大量虐殺が起こったり、およそ人間が人間らしく扱われない状況は、この世界にいくつも存在したし、現在もあります。人間というものは、「人権」という概念を発明し、すべての人間に「人権」があることを確認し合わないと、すぐにそれを忘れてしまう生き物なのでしょうね。
まとめますと、この物語で描かれる戦争請負会社のありようについては、リアリティがあると思います。ぼくたちが生きている間に「ロストック社」や「ラウテルン社」のような、戦争を代行する会社が立ち上がるかもしれません。そして、そのような戦争請負会社で実際に血を流すのは、戦争孤児や人身売買によって戦士とさせられたような「人権」を持たない若者達でしょう。
しかし、この映画で述べられる、「戦争請負会社によって平和がもたらされる」という命題については、ぼくはリアリティがないとおもいました。なぜなら、戦争というのはゲームじゃないので、「人権」を持った生身の人間が血を流すまで止まることはないからです。むしろ、人権を持たないキル・ドレ同士の戦闘でおさまるくらいならば、そんなものは戦争とは呼べないでしょう。
※(日本国憲法に則して言えば,「国民は、すべて基本的人権の享有(生まれながらに持っているということ)を妨げられない。」ため、「『人権』を持たない人間」という表現は矛盾していますが、ここでは便宜的にこの言い方を使わせてもらいます)
日本国憲法第97条「基本的人権の本質」では、次のように述べられています。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、(中略)侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
ぼくはこの条文の「自由」の部分を「平和」に読み替えても良いと思います。それほど、「人権」という概念は「平和」という概念と切り離して考えることのできないものだからです。
キル・ドレを「感情」や「人権」を持った存在にするか否か、たぶん原作者の森さんも多いに悩んだと思います。そして、映画を見る限りでは、キル・ドレが感情を持った存在なのかどうかは、曖昧に描かれています。しかし、ヒロインのスイトに関しては、とても人間的に描かれていて、彼女は「人間」と「戦闘兵器」の狭間で悩んでいます。彼女の苦悩を、簡潔な言葉で表してしまうと、「人間であるハズなのに、人権が保障されていない」というものなのです。
①と②続けて、この作品で述べられる戦争観については、批判的に書いてしまいましたが、「この作品で語られる戦争観」=「押井守(原作者:森博嗣)の戦争観」だとは思っていません。むしろ、映画製作サイドは、この映画で語られる戦争観に対して、視聴者が疑問や反感を持つことをひとつのねらいとしているのでしょう。となると、ぼくは映画制作サイドからしたら、まさに「予想通りの反応を示す視聴者」なのでしょうな。
それでは。
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