浅野いにお『うみべの女の子』:墓としてのWWW
- krmyhi
- 2014年6月24日
- 読了時間: 5分
今回の作品は、かなり直接的な表現でしたね。思春期特有の憂鬱と性に対する異常な反応を結びつけるのは、特に新しい試みでもなく、描写が生々しいだけにちょっと浮いちゃった感じがありました。もっとやんわりと表現してもらった方が、ぼくとしては受け入れやすかったです。多分。
さて、今回の作品では、主人公・磯辺の「死んだ兄」の存在が物語の中でとても重要な要素となっています。この物語は磯辺とヒロイン・小梅の物語であるとともに、磯辺と兄の物語でもあります。
死んだ兄の「唯一の外とのコミュニケーション」であるブログを、磯辺は勝手に引き継いで更新し続けます。
ここで、死者とウェブページについて、山形浩生が面白いことを書いているので、ちょっと紹介します。
「考えてみて欲しい。死んだ人のホームページはどう処理されるのだろうか。あるいは、これまで精力的にウェブページをつくり、更新を行なってきた知人がいるとする。その人が死んでからそのページを見たとき、あなたは何を感じるだろうか。そこには単純には割り切れない感情のわだかまりが必ずあるはずだ。・・・本人の死後も、公の場所で残り続け、個人の情報を発信し続けるホームページ。それはいわば墓のような存在である。」
(山形浩生『新教養主義宣言』pp.136-137)
では、磯辺のブログの更新という行為は、「墓参り」に相当するものだったのでしょうか。ぼくは違うと思います。磯辺がやっていた行為は、自ら死者となり墓の中に入ること、だと思います。
物語に終盤までずっと底流している鬱屈感は、この磯辺が「死んだ兄」の存在を上手く受け入れることができないことに起因しています。磯辺はブログを更新することで、死んだ兄と同化し、そのために「兄に呪われている」と感じている。つまり、磯辺は自分で自分に呪いをかけている訳です。
ここで注意したいのが、磯辺の行為は「死者の模倣」ではなく、「死者との同化」であるということです。
「死者の模倣」という行為は、死者を弔う際によく用いられる方法であります。
例えばアフリカのある民族は、親しい人間が死ぬと、供養の儀式中に自分の体を傷つけて死者の追体験をしようとします。
同じ漫画で言えば、『タッチ』のタッちゃんはカッちゃんが死んだために、彼の代わりに明青学園の背番号1を背負います。
芸能関係で言えば、故人と同じ名前を引き継ぐ「襲名」という儀式も、「死者の模倣」であると言っていいのではないでしょうか。
以上の例は、あくまで「模倣」であって、「同化」ではありません。模倣というものは、「自分の世界」を持っているからできるのであって、それを持たない磯辺にはできないことです。
磯辺の不幸なところは、兄の生前は、磯辺の「唯一の外とのコミュニケーション」は兄だけであったということです。友達もいない、両親もほとんど家に帰ってこない磯辺にとっては、兄だけが世界のつながりとなっていたはずです。兄を失うことにより、磯辺は外の世界とのつながりも一緒に失ってしまた。
そして、磯辺は自分で世界とのつながりを生み出そうとするのではなく、「死んだ兄」として、パソコンの前にすわる訳です。それは「兄が持っている世界とのつながり」であって、決して磯辺独自のものではありません。
自分で世界と関わろうとするのではなく、ただ兄と同化することで世界とのつながりを持とうとしたために、磯辺は兄が自殺した日ーーそれは自分の誕生日でもあるーーから一歩も踏み出すことができずにいるわけです。
物語の登場人物が「異常」であるにもかかわらず、結構読み進めていけてしまうのは、ストーリーが単純でわかりやすい構造になっているからだと思います。物語の構成の上手さがよく読んでみるとわかります。
まず、冒頭で磯辺と小梅は肉体関係を持ちます。これは、磯辺にとっては初めての性体験であるというだけの意味ではありません。これは、兄の死後、初めての「世界」(現実、バーチャル含めた)とのつながりである訳です。しかし、この段階では、磯辺はこの劇的な変革を意識していないため、今まで同様鬱々とした日々を過ごします。
次に、同級生・鹿島との諍いがあります。ここで、磯辺は「死んだ兄」について言及されます。そして、兄のことを相対化して考える訳です。それまで同化しかしてこなかった磯辺が、
「・・・お兄ちゃんはお前等に殺されたんだ。
・・・けど俺はお前等なんかに絶対に屈しない・・・」
と、初めて異化するわけです。
そして、夏休みには、磯辺が兄の存在をさらに相対化しなければならない状況に追い込まれます。ブログの訪問者に磯辺の正体を見破られたためです。ここで磯辺は、ついに兄の死について、詳しく語る訳です。他人の死を語るためには、ある程度その死を客観的に見れなければなりません。磯辺が兄の死について、その訪問者に伝えようとして消したメールは、磯辺が兄の死を相対化できつつあることの証明です。
この、現実とバーチャルの世界でそれぞれ起こった事件によって、それまで、パソコンの前で、「現実とバーチャル」、「自分と兄」、「生者と死者」という者の間でフワフワと生きていた磯辺も、自分と兄について、切り離して考えざる終えなくなった訳です。二つの事件は、「現実」と「バーチャル」という別々の世界で起こってことですが、物語の役割的には、車の両輪のように対になっているのです。
さて、兄を異化することはできましたが、それだけではメデタシメデタシとはなりません。むしろ磯辺にとって、兄の死と向き合わなくて良かった「同化」時代の方が心地良かったかもしれません。
磯辺が次にとった行動は「復讐」です。これは歪んではいますが、兄と自分を区別して考え始めたことの表れです。この「復讐」が兄の死を受け入れる第一歩目となっているわけです。
そして、「復讐」に成功した磯辺は、その「復讐」が何の意味も持たなかったことに気がつくのです。
最後はブログを閉じ、パソコンを初期化することでようやく自分独自の世界で生きていくことを決心する、兄の死を受け入れたという構造になっています。実に分かりやすいですね。いにおさんの構成力の高さが、異常で感情移入しづらいキャラクター設定をカバーしている作品でした。
それでは。
Commenti