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荒木飛呂彦『ジョジョ第7部:STEEL BALL RUN』:アメリカ的な2つのもの

  • 執筆者の写真: krmyhi
    krmyhi
  • 2014年6月21日
  • 読了時間: 5分

 やはりスタンド能力は出尽くしてしまった感が否めないですね。今回のシリーズも、能力的にすごく気に入る様なキャラは出てきませんでした。かなり複雑で理解不能であったり、以前出てきたのと似かよっていたりでそこまで戦闘シーンは面白くはありませんでした。最近のジョジョの戦闘シーンを「作者の手前勝手な理屈」と名付けたのはぼくの友達ですが、確かに言い得て妙ですね笑。

 でも、今回のシリーズも、話の流れは独創的で、キャラも立っていて、なんだかんだ読者に読ませてしまう力がありますね。これだけの物語を書くには、かなりアメリカの歴史や地理について下調べしておかないと書けないでしょう。

 さて、本題に入りましょう。今回は、荒木の指摘するアメリカの病症についてです。

 今回の主人公・ジャイロとジョニィの敵は、アメリカ合衆国大統領・ヴァレンタインです。このヴァレンタインというキャラクターに荒木飛呂彦はアメリカという国を象徴させています。

 まずは、彼の能力がとてもシンボリックです。「聖なる遺体」を味方につけて、完璧な能力を得たヴァレンタインは、敵からの攻撃を全く違う世界へと反らせてしまうことができます。ヴァレンタインの身の回りでは、「善いこと」だけが起こり続け、「悪いこと」は地球の反対側ーー中国やアフリカーーに飛んでいってしまいます。

 まず、物事を「善いこと」と「悪いこと」の二つに分けて考える考え方。この二元論的な考え方は「正義」と「悪」という概念をすぐに持ち出すアメリカ政府の考え方と地続きのものです。

 そして、「聖なる遺体」を手にした者は「善いこと」だけが起こり続けるというポジティブ・フィードバックの構造は、アメリカが未だ世界経済のトップとして君臨し、強力に支配力を拡大させようとしているグローバル資本主義を表していますね。(「ポジティブ・フィードバック」とは、「勝つ者だけが勝ち続け、負ける者は負け続ける」という勝者・敗者の関係の流動性が失われている状態です。)

 そして、幸せを引きつける「聖なる遺体」をアメリカに留めておくことに固執するヴァレンタインの姿は、グローバル資本主義で大きな利権を手放そうとしないアメリカの姿そのものだと思います。

 この2つが荒木がフォーカスしているアメリカの性格です。「二元論的考え方」と「ポジティブ・フィードバック構造」です。

 対して、荒木が今回主人公与えた武器は、スタンドではなく鉄球です。主人公のジャイロ・ツェペリは、回転させた鉄球を相手に投げつけて攻撃します。このジャイロの武器の「球体」と「回転」というモチーフが絶妙ですね。

(主人公の能力を「スタンド」という実体のないものから、鉄球という実体のあるものに切り替えたことにも何らかの意味がありそうですが、今回はそれについては述べません。)

 では、「球体」や「回転」が何を意味するのか。

 一方では、「善悪」はいつ入れ替わるか分からないものだ、という「二元論」へのアンチテーゼになっています。なぜなら、「球体」に表裏はないし、「回転」というのは流動的であることの象徴だからです。

 そして、もう一方では、社会の固定化した構造を撹拌し、循環型の構造に変えることの象徴になっています。

 荒木がこの物語で「球体」や「回転」にこだわった訳は、上に挙げたアメリカが抱える2つの病に対抗する手段として、とても有効でわかりやすい表現だったからです。

 荒木は扉の言葉で「聖なる遺体」とは「清らかなるもの」の暗喩として描き、「清らかなるもの」を手にした人は物事の「善悪」や「醜美」が分かるようになる。

 という様なことを書いていましたが、荒木自身は、この「清らかなるもの」には猜疑心があるように思いました。これはあくまで予想ですが、荒木は「正義」という言葉は嫌いなのではないでしょうか。(ホントに勝手なこと言っていますね)今までのジョジョの主人公達は、みんなヒーローらしからぬヒーローでした。3・4部は不良少年、5部はギャングスター、6部は囚人です。多分、荒木は、善と悪の二つに分けてしまう様な単純な考え方などは嫌いなのでしょうね。それは、画風にも表れているとぼくは思います。

 ぼくは幼い頃、荒木さんの画風が苦手でした。今回のサムネイルに選んだ扉絵もそうですが、荒木さんの描く絵は、不気味で不自然じゃないですか?妙に肉感的でリアルなキャラクター造形、不自然なポージングと構成、違和を感じさせる配色。

 しかし、時が経ち、ある日久しぶりにぼくがジョジョを読んだら、その芸術性にぼくは目から鱗が落ちた様な気分になった訳です。それまで、実はジョジョの構図や配色を「ダサい」と思っていたぼくにとっては、自分の中の「醜・美」や「現実的・非現実的」という概念がよくわからないものとなってしまいました。ぼくは一体何を基準に「ダサい」や「不自然」という判断を荒木の画風に与えていたのか。そんなものは、ぼくの幼い頃の価値観に過ぎなかった訳です。

 「正義」なんて言葉は口にする人の立場によって変わるんだよ、ということと同じです。何が正しいかなんて一つの答えがあるわけではないし、何が美しいかなんてことにも一つの解がある訳じゃない。

 今まで固定化されていたものを撹拌し、回転する力を与える。それがこの物語の主題であったように思います。

 なんか、アメリカをすごく悪い風に書いてしまいましたが、アメリカが悪いと言っているのではありません。あくまで荒木飛呂彦はこの日本も含めて世界中が陥っている病を分かりやすく説明するために、アメリカというモチーフを使用したのでしょう。アメリカだけを悪者にしたら、「善」と「悪」の単純構造が嫌いな荒木飛呂彦のポリシーに反しますからね。

 
 
 

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