小津『秋刀魚の味』:あまりに自然な感情表現
- krmyhi
- 2014年6月18日
- 読了時間: 4分
ずっと見たかった小津の『秋刀魚の味』を観ました。やはり小津の映画を観ると安心するというか、癒されるというか。なんとなくホッとしますね。
小津の映画の一番大きな特徴は、「抑揚のなさ」だと思っています。もちろん、きちんとクライマックスと呼べるものはあります。ありますが、小津の映画を見て大きく泣いたり、笑ったり、興奮したり、という反応をする人は想像しづらい。観終わったあとに、じわじわと心が温まるのが小津映画の良いところです。
さて、この「抑揚のなさ」は一体どこから来ているのでしょうか。それは、「役者の感情表現が極端に抑制されている」ためだと思われます。登場人物のほぼ全員がほとんど大きな感情の波を表には出さない。怒って大声を上げたり、深い悲しみに涙したりという場面がほとんど無いのです。
『秋刀魚の味』で、主人公の娘・路子が意中の男性に恋人がいるということを知る場面でも、路子の涙は(ほとんど)画面に映りません。他の映画だったら、涙を流すなど、感情を爆発させるシーンは必ず大写しで撮られるハズなのに、小津は違います。次男・和夫の「お姉ちゃん泣いてたじゃないか」という台詞一言で片付けてしまいます。
また、主人公が娘・路子の花嫁姿を見たときの台詞も、感情を抑制していることを示す良い例です。彼は、結婚式当日、綺麗に花嫁衣装に着飾った路子を目にして、次のように言葉をかけます。
「やぁ、できたね」
普通の映画だったら、このクライマックスシーンをさらにもり立てるために、感嘆の台詞を入れたり、男泣きさせたりして観衆の感動を誘うような撮り方をするはずです。しかし、小津は決して感情を前面に押し出す様なことはしない。奥ゆかしいんです。
そんな、人物の感情表現が極端に抑制された小津映画ですが、ぼくたちは登場人物の心情を理解し、感情移入することができます。感情表現が抑制されているのに、なぜそんなことができるのでしょうか。
映画をよく観てみると、登場人物達が感情表現をしていないわけではないことが分かってきました。しかし、彼らの感情表現はあまりに微妙で、自然に観衆に伝わってくるため、ぼくたちは登場人物の心情を理解しようとするまでもなく、スッと物語に入っていけちゃうわけですね。
小津映画において、役者達は自分の感情を表情や言葉遣いではなく、動作で表していました。洗濯物の畳み方、アイロンの掛け方、タバコの煙の吐き出し方、ネクタイのはずし方、日本酒の飲み方。そのような、あくまで日常的な「動作」です。感情を表す「動作」と言っても、ゴミ箱を蹴飛ばしたり、酒をヤケ飲みしたり、というような激しい動きではありません。
あくまで、日常での何気ない動作の中に登場人物の心情が垣間見えます。それらの動作はあまりにも自然です。しかも、巧みに過度な演出を抑制しているため、それが感情表現だとは意識できないほどです。でもぼくたち観衆は、役者の手つきだったり、「間」だったりを観て、なんとなく登場人物の喜怒哀楽が分かるのです。
登場人物の感情があまりに自然にこちらに流れ込んでくるので、ぼくは「抑揚がない」と感じたのかもしれません。それと同時に、あまりに自然に登場人物の心情を理解し、彼らと同化することができたため、「安心感」や「癒し」というものを感じたのかもしれませんね。
最後に、この映画では、結局「秋刀魚」は一度も出てきません。(見逃したのでなければ)。では、なぜこのような題名にしたのかというと、秋刀魚の特徴を考えてみれば納得できます。
秋刀魚は決して高級魚ではありませんが、素朴でしっかりとした味が多くの人に好まれる庶民の魚です。
そして、この物語は、決して特別じゃない一家のありきたりな幸福を描いたものでした。
そんなストーリーと秋刀魚の特徴を重ね合わせて、このタイトルになったのでしょう。素晴らしい。ぼくは小津の映画のタイトルが大好きで、それだけでも小津の才能に降参です。
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