白川昌生『ダダ、ダダ、ダー地域に生きる想像☆の力』:ローカリズムと民衆の歴史
- krmyhi
- 2014年6月16日
- 読了時間: 4分
白川昌生(しらかわよしお)の展覧会に行ってきました。白川のことは知りませんでしたが、アーツ前橋が昨年春にオープンし、ずっと気になっていたので行ってきました。あと、ダダイズムにも興味があったので。
アーツ前橋は建物の構造はとてもユニークで、ぼくがこれまで見て来た美術館とはちょっと違っていました。ユニークであるがために、様々なジャンルの展示に耐えることができるのか、疑問を持ちました。しかし、『アートと出会う』と称したアーツ前橋のシンポジウムでは、館長の住友さんが「学芸員が実際に使用する際の意見を取り入れながら設計した、ソフトありきのハードです。」ということ言っていたので、まあ大丈夫なのでしょう。こういうのは、作るときが大切ですからね。シンプルで使いやすいのが一番良いと思います。
さて、アーツ前橋について語るのは、また別の機会にとっておいて、本題に入りましょう。
「芸術とは、ごく一部の才能ある者によって担われるものなのでしょうか?」
このような見出しがフライヤーの裏面の一番上に大きく書かれていましす。白川昌生は、日常の生活のなかでも創造的に行なわれることは芸術である、と「芸術」の概念を幅広くとらえているアーティストです。まあ、このような考え方が「ダダイズム」という概念なので、珍しい考え方ではありませんが。
彼のそのような考え方をもっとも色濃く繁栄した作品が『ぷらっとフォーム計画・前橋』でした。
この作品は、前橋の商店街で暮らす人々にインタビュー取材を行ない、その記録をそのまま作品化した映像作品です。インタビューの内容は、「仕事の内容」であったり、「地域との関わり」であったり、「ただの世間話」であったりします。インタビュイー本人をテーマとした取材ですね。そして、インタビュイー達は足を、白川が作成したフットレフトに載せながら取材を受けます。
前橋に住む多種多様な人々を「ぷらっと」気軽に定式化し、一つの芸術作品にしています。一人の人を題材に、その人に関する「話し方」「笑い方」「仕事」「遊び」
など、たくさんのことを残すことができる「映像」を用いて、「普通の人」の「普通の生活」がいかに芸術的であるかを訴えかける様な作品でした。
このようなものが「芸術」たり得るのか?と疑問を持つ人々もいるかと思います。ぼくも、「芸術」と呼ぶにはあまりにも個人をそのまま出しすぎている、と思ってしまいましたが、それ以上に、歴史好きのぼくからしてみたら、「とても重要な地域史の資料になるな!」と思いました。
昨年度、歴史教員達の勉強会に参加させてもらいましたが、歴史教育の分野で、近年ずっと存在し続けている、一つの大きな課題があります。
「いかに歴史に残らない(残らなかった)人々の歴史を汲み上げるか」
というものです。
歴史とは、支配者の記録の連続であって、敗者や弱者の歴史というのはことごとく無視されてきました。ぼくたちが歴史科の授業で学んできたことなど、1割の支配階級の人々の発言や行為だけなんです。しかし、それでは本当にその時代に生きていた多くの民衆の生活が分からない。そういう問題意識が歴史教員達にはあります。
歴史科の中で、もっと「民衆寄りの歴史」を教えようと、様々な工夫がなされてきました。例えば、近年の歴史科の授業では教科書以外に図説を用います。もちろん、ぼくも図説を使いながら歴史を勉強してきました。このような図や写真をたくさん使用するようになったのも、「民衆寄りの歴史を伝えたい」という運動の流れの中で生まれてきたものです。
例えば、平家物語のような文学や御成敗式目などの法文を読んでも、鎌倉時代の武士の人々についてや政治情勢は分かりますが、民衆の生活についてはあまり分かりません。しかし、鎌倉時代の絵巻物にはたくさんの民衆の姿が描かれたりしているわけです。言葉で残されていないため、想像力で補わなければならない部分も大きくなってしまいますが、文字に残されない様な、平凡な民衆の生活を知るにはとても有用な資料であるわけです。このように、当時の芸術品や道具を用いて歴史科の授業を行うのは、「民衆よりの歴史」に近づくためには、良い方法だと思います。
その他にも、様々な試みがなされていますが、まだまだ「民衆よりの歴史」にはほど遠いと言わざるを得ません。文字が書けなかった人々、「言葉」を持たなかった民族、辺境で暮らす人々の歴史をいかに汲み上げるかは、まだまだこの先も歴史教育の大きな課題であるわけですね。
話を戻します。この白川昌生は、芸術というものを一般市民の日常においても見いだして欲しい、という願いを込めてこの作品を生み出しました。
そして、この試みは、歴史には残らない一般市民の歴史、辺境に住む人々の歴史、を残す上でも、大変意義のあることです。「ただの一般人のインタビュー映像」を白川は「芸術」と呼び、ぼくは「歴史」と呼びます。「何を大それた。笑」って気もしますが、それでいいのです。ぼくたち民衆は、今まで一部の人達が特権的に有していたたくさんのものーー芸術であったり、歴史であったり、政治であったりーーを徐々にぼくたち民衆の手に戻していかなければならないからです。そして、ぼくたちは、今までで最も容易にそれを達成できる時代に生きています。
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