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(仮)ALBATRUS『DEMO』:②言葉の身体性と「ハレ」の時空間

  • 執筆者の写真: krmyhi
    krmyhi
  • 2014年6月9日
  • 読了時間: 3分

②言葉の身体性と「ハレ」の時空間

 インターネットの普及のおかげで、身体を伴わない言葉がたくさん世に出回るようになりました。その最たる例が匿名での発言です。(このブログも身体性がないですね。)

 でも、そういった身体性のない言葉が氾濫したことにより、身体性のある言葉のありがたみをぼくたちは知ることができました。身体を伴った言葉の最大の特徴は、「再現性がない」ということです。身体を伴った言葉は、その発語後、再度同じ条件下で発せられることはないのです。

 たとえ、同じ言葉を用いたとしても、状況・タイミング・抑揚・リズムが全く同じになることなどあり得ません。それが身体を伴った言葉の特徴である「一回性」です。だからこそ、文字では持ち得ない「価値」がそこに付与されます。

 CDで聴く音楽と、ライブで聴く音楽では全く異なることを多くの人が知っています。あるいは、お茶の間で観るミュージカル映画と舞台で観るミュージカルの違いは観たことのある人なら理解できるでしょう。

 それらが「別物」だと感じるのは、例えば「ライブで聴いた方が音質がいい」とか、「液晶画面じゃ実物どおりの画じゃない」とか、そういう理由ではありません。ぼくたちがそれらを「別物」と判断する理由は、その対象に起因するものではなく、それらを受容するぼくたち自信にあります。

 「再現性がない」言葉を受容する時に、ぼくらはその一回性を意識して受容します。(ここで使う「言葉」は広義の意味で、音楽、演技を含めた表現一般を指します。)「特別な体験」として意識しながらそれと向き合うため、何回でも再現できるもの(例えばCD)とは、受容の仕方が異なるのは当然のことです。

 そして、そういった「特別な体験」をすることができる時間・空間のことを、日本人は「ハレ」と読んできました。普段の生活とは時間的・空間的にある種の断絶がある状態のことです。この「ハレ」の特別性は、「再現性のなさ」すなわち身体を伴った言葉に担保されているものなのです。考えてみると、冠婚葬祭やお祭りなど、代表的な「ハレ」は全て形式は整っていても再現性はないですよね。

 自分の身体を普段とは異なる時空間に置くことで、普段とは違う受け取り方・感じ方をする。そして、それらは普段とは違う仕方で血肉化・身体化する。

 冒頭で述べたとおり、デモで発される言葉には身体が伴い、そのため、デモというのは「ハレ」の時空間に置かれるものです。ぼくが、デモの重要性を訴えることと、音楽好きの人が「ライブの音楽はCDとは全然違うよ」と言うのとは、なんら変わることがないのです。

 一応繰り返しておきますが、ネットでの社会運動を軽く見ているわけではありません。また、CDやDVDなど、再現性のある芸術についても同じく軽く見ているわけではありませんが、「再生可能性」のある芸術論ついてはまた別の機会に述べたいと思います。

 それでは、長文乱文失礼しました。

P.S

 この(仮)ALBATRUSというグループのことを知ったのは、ボーカルの三宅洋平が参院選に立候補した際に、演説で楽曲を用いていたからです。

 彼の主張のすごいところは、自民党さえも否定せずに、むしろ「政権を取ろうなんて思っていない、自分は自民党の手助けで良い」とまで言っているところです。自分が政治の素人だということを重々承知した上で、日本や世界に対して自分ができることをしようと戦っている。いや、戦うのではなく、平和的話し合いを展開しようとしている。たとえ絵空事だ、理想論だ、と笑われても、ぼくは彼のような人間を応援したい。この動画はぼくが何回も繰り返しみているお気に入りの街頭演説?の動画です。→吉祥寺選挙フェス

かっこいいです。

 
 
 

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