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(仮)ALBATRUS『DEMO』:①形式とメタ・メッセージ

  • 執筆者の写真: krmyhi
    krmyhi
  • 2014年6月7日
  • 読了時間: 5分

 今回は,この楽曲の歌詞を使いながら、デモ論を展開したいと思います。結構カタめの内容ですが、かなり思い入れのあるテーマなので是非最後まで読んでみてください。

よろしくどうぞ!

 ちなみに、この『DEMO』という作品は、もちろん音楽の芸術性も高いですが、映像の力がとても強い。CDで聴くよりも総合芸術として動画で観る方がお薦めです。

①形式とメタ・メッセージ

 デモに対する批判があります。「騒ぎたいやつがただ騒いでいるだけ」「政治にコミットしたいなら、もっと効率的な方法がある」などが主なものでしょうか。でも、ぼくはそういった批判は妥当じゃないと思います。だって、デモなんて、「騒ぎたいやつがただ騒いでいる」もので良いと思うんです。デモに「真面目さ」や「効率性」なんて求めるのはナンセンスです。真面目であっても、不真面目であっても、ぼくたちは生きているだけで政治と結びついています。ぼく達の消費、労働、遊び、会話、全てが政治と深くコミットしています。肩肘張らずに、お祭りに参加するような感覚で行く。デモなんてそれで良いんです。

  「パリのデモを見て、最初驚いたのは

  ほとんどの人が、ただ歩いているだけだということである」

 この冒頭の台詞は、まさにぼくがある日新聞を読んで衝撃を受けたことと同じでした。ぼくが読んだ新聞には、犬を連れて、まるでただの散歩をするように歩く初老の女性が写されていました。確かアメリカのデモ行進の風景を紹介した記事だったと思います。

 この冒頭で語られている風景が、デモのあるべき姿だと思います。一つのメッセージのもとにみんなが集まって、一つの方向を向いているけれど、やっていることはバラバラで何か食べている者もいれば、隣のやつとお喋りしている者もいる。デモは、そんなお祭りの亜種であっていいと思います。お祭りだって、もともとは土地の神に祈りを捧げるものだけど、今はみんな騒ぎたくてやっているでしょ。「真面目に神に祈れ!」なんて言う人は誰もいない。それでも、自然の恵みや地域社会に感謝しようというコンセプトは祭りに参加する人の無意識下で育まれていると思うんです。

 あくまで、デモは「デモンストレーション」であって、形式的なものなんです。一つの形式に人々が自らはまり込むことによって、例え声に出さずとも、発せられる一つのメッセージがあります。

 『DEMO』の歌詞で次のフレーズがこれと同じことを言っている。

「・・・そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる」

 こういうメッセージのことをメタ・メッセージと呼んだりします。何かメッセージを発する時に、付随して発せられるさらに高次のメッセージのことです。分かりやすい言い方が思いつきませんが、脱原発デモを例に挙げると、「原発反対」というメッセージよりも高次に「俺は世の中に対して言いたいことがある!」というメッセージがある。このメッセージは、デモに参加するだけで発せられているメッセージです。メッセージのためのメッセージというようなものです。上手く説明できてませんね。すみません。

もう一つ例えをば。

入学式などの式典などで始めに開会の辞が述べられます。開式の辞を述べる人は、「只今より、入学式を始めます」という発語しかしませんが、この開式の辞には、「後ろの方々、聞こえていますか?」というメッセージや、「お祝いする心の準備は整っていますか?」というメッセージが含まれています。こういったメタ・メッセージは会場にいる全員の暗黙の了解となっています。普段はあまり意識化されませんが。

(以前紹介した『蒲田行進曲』もこのメタ・メッセージにこだわって作られた映画です。映画界を舞台に映画を撮ることにより、深作さんの映画論が物語の裏側で展開されているわけです。)

 ちょっと横道にそれますが・・・。江戸時代の「打ちこわし」もデモンストレーションでした。社会の教科書で「打ちこわし」の絵などを見ると、農民が金持ちの倉を壊したり、そのなかの米俵に穴をあけている様子が描かれています。農民達は略奪を行なっているように見えますが、違うのです。「打ちこわし」にはルールがあり、略奪や人を傷つけることは禁止されていました。(もちろん例外もあったとは思いますが)農民達が行なった破壊行為はあくまでデモンストレーションであって、「年貢の引き下げ」の交渉の仕方の一つだった。昔から、日本の民衆は、形式に則って怒りを表してきました。そのように、敢えて感情を形式化することで、余計な暴力行為が生まれないようにした。「怒り」の形式化は平和を好む昔の人々が生んだ知恵なんです。

 閑話休題。デモはあくまでデモンストレーションであるため、それをやったことで、何かしらの成果にすぐに結びつくというものではないです。だから、「デモよりも効率的に政治を変える方法がある」なんていう批判は見当違いなんです。デモは効率性など初めから考えていない。良いんですよ。デモンストレーションなんですから。所詮は形式なんです。

 それに、そういう人達の効率的な政治ヘの働きかけ というものはだいたいがインターネットを用いたものです。ぼくはネットを用いた政治へのコミットメントに批判はしません。ぼく自身、ネット署名などをよく利用させてもらっていてその有用性は身に染みて感じています。しかし、デモを批判する人達にデモの良さも理解して欲しい。デモがネットを用いた社会活動と一線を画しているのは、メッセージに身体性があるという点です。生身を持った人間が、一所に集まり、体を動かす,声を挙げる、プラカードを掲げる。そこにあるのは、「身体を伴ったメッセージ」なんです。

(「②言葉の身体性と「ハレ」の時空間」へ続く)

 
 
 

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