Gotch『can't be forever young』:まるい命の燃やし方
- krmyhi
- 2014年6月5日
- 読了時間: 5分
いいですね〜。Gotch。アジカンが大好きなだけに「ソロはどうなんだろう?」と半ば心配な気持ちもありましたが、ぼくの心配などするに及ばず。アジカンで見せるのとはまた違うゴッチの良さが出ていました。
命の有限性。
これは最近のゴッチのテーマで、やはり3・11が大きなターニングポイントになっています。あの震災で、あまりにもあっけなく多くの人々が命を落として、ゴッチは「生きる」という意味を考えました。多分。そして、この「若いままじゃいられない」というアルバムを出したのです。邦題は「いのちを燃やせ」となっています。良い訳ですね。さすが詩人。
「いのちを燃やせ」=「その一時を全力で生きる」というテーマは、インディーズ時代からアジカンの根幹をなすものであり、インディーズ時代のヒット曲「遥か彼方」もそれについて歌っているのだと思います。しかし、「遥か彼方」と「can't be forever young」では、その裏側に流れる考え方に確かな違いがあるように感じました。
その違いとは、ある種の諦観です。『遥か彼方』の時代では、「いつまでも前線でバリバリロックしてやるぜ!」みたいな20代らしい、そしてラウドロック好きらしい勢いの良さみたいなものを大切にしていました。しかし、3・11を目の当たりにした彼は、結局、人は老いからも死からも逃れられないのだという現実を、身をもって理解するわけです。また、今回の災害の理不尽さから、死は善人にも悪人にも、金持ちにも貧乏にも関係なく降り掛かるということを実感するわけです。そこから生まれる複数の種類の諦観。
彼がバンドマンとしての活動だけでなく、プロデューサーとしての活動を始めたのも、そのような考え方からだと思います。いつまでも自分が第一線で音楽をやれるわけではないので、若い芽をどんどん見つけて育てていこう、と。新聞「The Future Times」を作り始めたのも、同じ理由からです。自分が体験したことを後世に残すにはどうすれば良いかを自問自答しながら記事を書いている印象を受けます。
特にぼくは最後の曲『Lost』で出てくる
「全てを失うために、全てを手に入れようぜ」というフレーズが気に入りました。ゴッチはコレを言いたくてこのアルバムを作った気がします。
人間死んだらただの灰だけど、だからと言って人生に意味などないかと言ったらそんなことはない。限りある命をどれだけ派手に、どれだけ綺麗に燃やすことができるだろうか。これこそ、ゴッチがこのアルバムで表現したかったことのように思います。「ずっと若くいることなどできない」「命は簡単に失われてしまう」「死んでしまったら灰しか残らない」という様々な種類の諦観に立ったうえで、ではそれなら自分の生をどう考えるのか。これこそがGotchのテーマなのです。
今回のゴッチのアルバムで変わったと感じた点は「諦観」だけではありません。もう一つは、メッセージの差し出し方についてです。これは「変わった」というよりも、「アジカンとの差別化を意識した」と言った方が的確かもしれません。アジカンではできないやり方で、リスナーに語りかけてみよう、という試みがあったように感じます。では、どのようなメッセージの差し出し方を、ゴッチはこのアルバムでしたのでしょうか。
自分の持っている時間の短さを意識した時、どうしても伝えたいことがある時、ぼくたちは強い言葉や大きな声を使いがちです。大きな声で、強い言葉で話せば、相手に伝わると思ってしまう。でも、本当にそうでしょうか。内田樹の(またかよ!笑)言葉で、ぼくがしみじみと頷いてしまったものを紹介します。
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・・・逆説的に聞こえるだろうが、少数意見であればあるほど、そして、自分がその意見が「他の人たちに聞き届けられる必要がある」と信じていればいるほど、語り口は丁寧で穏やかなものになる。
うかつに断定的に語り出したり、聴き手を見下したり、恫喝したりして、「気分の悪い野郎だな」とふっと横を向かれ、耳をふさがれてしまっては、それで「おしまい」だからである。 それで「おしまい」にされないためには、とにかく一秒でも長く自分の話を聞いてもらわなければならない。 すがりつき、かきくどき、「とにかく話を聞いてくれ」という懇請によって相手の足を止め、しばらくの間「耳を貸して」もらわなくてはならない。 そのような語り手の言葉が威圧的であったり、断定的であったり、冷笑的であったりするはずがない。
(2011年9月20日の内田樹ブログ「多数派であることのリスクについて」より)
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ぼくはこの内田の考え方に賛成です。実際がどうかは分からないけど、そうであって欲しい、という希望も含めて内田の考え方を採用します。ゴッチも、このような内田内田の考え方に影響を行けているのだと思います。(実際、ゴッチと内田樹は対談等も行っているので、その可能性は大いにあります。)ゴッチもこの考え方を採用し、このアルバムを作ったのではないでしょうか。
アジカンのドラマー・潔が、ゴッチについて
「アジカンではラウドなことがやりたいって言っているしね。ラウドミュージックの中心にいるようなバンドでありたいって。」
と語るように、ゴッチは今ままで大きな音で、みんなが乗れるような曲調で、ぼくたちに語りかけてきました。
しかし、相手への伝え方は一つではない。大きな声を出すことだけが人に語りかけるときの唯一の方法ではないのです。
それに気付いたからこそ、アジカンとは別の、「Gotch」というアーティストが誕生したのだと思います。アジカンとは別の語り口で伝えたいが彼にはあったのでしょう。自分にしか語れない物語を、できるだけたくさんの人に聴いてもらうために。
今後もゴッチの活動に期待します!
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