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内田百閒『第一阿呆列車』の日本的文体

  • 執筆者の写真: krmyhi
    krmyhi
  • 2014年5月22日
  • 読了時間: 3分

 内田百閒の作品を初めて読みました。洒脱な文体が読んでいてとても心地良い。解説で伊藤整が「漱石のユーモア文学の発展としての百閒の文学というものをここで説いたりすることは」云々と書いてますが、確かに漱石文学のユーモアをさらに磨いたような笑える作品でした。

①フラフラと着地点の分からない文章

 内田百閒の文学は、とてもすっきりしていて読みやすいな、と思いました。なかなか説明の難しい事項を、きちんと細かいニュアンスを省くことなく簡潔に説明している。次の文章なんて、自分で書こうと思ったら、かなり難しい説明だと思います。

  (連れのヒマラヤ山系くんとの列車での席の取り方について)「少々寒いけれど  も、我慢してじっとしている。山系君と並んで、私は通路側にいる。窓際と通路  側と、どっちが良いかと云うことを、同行の山系相手に利害関係で判断して、良  い方を私が取り、悪い方に彼を座らせると云う様な根性はない。しかし二つ並ん  だ席では、大概の人は窓際がいい様に考えているらしいけれど、特に窓外が見た  いとか、停車の度に窓から何か買おうとするとか、そう云う事がなかったら窓際  よりは通路側の方が万事に都合がよく、落ちつきもいい。山系君は普通の判断に  従い、窓際の方がいいと思っているから、私にそっちへ坐れと云う。僕はこっち  の方がいいと云って、通路側に席を取る。その結果私は私の判断でいいと思う方  に坐り、山系は山系の判断でこっちがいいと思っている方を私が譲った恰好に   なって、甚だ納まりがよろしい。(p278)

 上の文章で改めて感じるのは、とても日本的な文体だな、ということです。文章は分かりやすいが、話の着地点がどこにいくのかわからない。結局、筆者が言いたいのは、最後の文章の「その結果私は私の判断でいいと思う方に坐り、山系は山系の判断でこっちがいいと思っている方を私が譲った恰好になって、甚だ納まりがよろしい。」という部分であって、そんなくだらないことを説明するのに、半ページほど読者を引っ張るのです。レポートだったら「わかりづらい!」と怒られてしまいますね。国語科の作文指導でも書き直しを求められるかな。でも、このような日本的文体のまどろっこしさが内田百閒や夏目漱石の長所であって、そういうものに初・中等教育の国語科であまり目を向けないのがちょっぴり寂しい気もします。確かに学術論文等であれば結論は先に持って来た方が効率的です。しかし、そのような文章の書き方を国語科で徹底的に教え込まれて来たので、逆に内田や夏目の文章のような「まどろっこしいけどわかりやすい」という文章が書けなくなってきている気がします。せめて国語科で小説を扱うときは、「効率」や「世界基準」というものだけでなく、日本的文体の特徴・美しさにも目をやって欲しいものです。「話がどこに落ち着くのだろう」というそわそわした気持ちで文を読み進めていくのもいいものです。

②会話の形式美

 次のような会話は、いかにも里見弴の小説や小津安二郎の映画に出てきそうで良いですね。笑

   ーーヒマラヤ山系君は、重たそうな瞼をして、見ているのか見ていないのか、   解らない。

   「いい景色だねぇ」

   「はあ」

   「貴君はそう思わないか」

   「僕がですか」

   「窓の外のあの色の配合を御覧なさい」

   「見ました」

   「そこへ時雨が降り濯いでいる」

   「そうです」

   「だからどうなのだ」

   「はあ。別に」

  それで大荒沢へ着いた。ーー(pp266−267)

 横書きにするとちょっと印象が変わってしまいますが、この間延びしたような会話が随所で出て来て読者を惹きつけます。退屈に感じる人もいるかもしれませんが、僕はこういうの好きです。形式美ですね。ここまで間延びした、のほほんとした会話は実際の場面ではほとんどありえません。芝居がかった「つくりもの感」がいいのです。このような形式美も日本的芸術の特徴ですね。(能や狂言がその最たるものです。)

 それでは〜

 
 
 

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