『あなたの肖像--工藤哲巳回顧展』:③「ハプニング」から「セレモニー」への移行
- krmyhi
- 2014年2月10日
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③「ハプニング」から「セレモニー」への移行 工藤は「ハプニング」や「セレモニー」と呼ばれる芸術的パフォーマンスを度々行っています。 この「ハプニング」や「セレモニー」が工藤の特徴にもなってます。 分かりづらいと思うので、ひとつ例を。 >(工藤は自分の展覧会場で)自身の身体を紐で拘束し、大きな男根状の造形物を掲げたり舐めたりと >激しく動かしている。 (出品資料解説ー工藤哲巳の行為について ハプニング「インポ哲学」より) このような身体的パフォーマンスはたくさんのアーティストが行いますが、 興味深いのはそのパフォーマンスが工藤の若い頃は「ハプニング」と呼ばれる刺激性の強い、激しいものから 晩年には「セレモニー」と呼ばれる瞑想的、内省的なものへと変わっていったことです。 動的なものから静的なものへの移行。 そして、この変化の間には工藤の「他の芸術家への失望」というものがあります。 1970年後半に彼は「危機の中の芸術家の肖像」という題の作品をいくつも作成し、社会的問題性を孕まない作品を世に送る多くの芸術家への批判を行っています。芸術家の真の社会的意味を世に問い直すわけです。彼は、自分のように社会的問題を提起する芸術家が少なくなってしまったことに失望し、それ以降作風が抽象化します。これは彼が本当に危機を感じていることの証だと思います。危機的状況の中で、人間は行動を過激化すると思われがちですが、一概にそうとも言えません。事実、戦時期には抽象画が流行り、平和が続くと具体画が流行る、というのは美術史家によってすでに指摘されています。工藤は「危機」という言葉を好んで使いましたが、本当に危機を感じたために作品を具体から抽象へと変化させていったのですね。 僕は今、このような手法を大変気に入っていて、例えば政治問題において、 民主主義が危機に瀕していると思いますが、行動を過激にしてはいけないと思います。 あくまで理性的に。大衆の知性に訴えかけるように。 デモひとつ取っても、今の日本ではシュプレヒコールをあげて、拳を振上げる というものが主流ですが、欧米では新しい形のデモが生まれてきています。 シュプレヒコールもあげず、拳も振上げず、ただ散歩するように街をデモ行進するのです。僕は、犬を連れたまままるでピクニックのような雰囲気で歩くおばさんの写真を新聞で見た時に、衝撃を受けました。 民主主義の危機であるからこそあせらない、これが大切なのではないかと思います。
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