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ロバート・ストーン『パンドラの約束』:後退戦に希望はあるか?

  • 執筆者の写真: krmyhi
    krmyhi
  • 2015年1月25日
  • 読了時間: 5分

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 『原発推進映画』ということで、気になっていた映画ですが、何から話すべきでしょうか。この映画で出てきた話題一つ一つ取り上げてコメントするのは違う場所でやります。この映画の登場人物達と話し合うためには、そんな些末なことをネタにしては、議論にならないでしょう。見ているものと目指す場所—つまり現状認識と掲げる目標が大きく乖離している人と議論するためには、何が必要なのだろうかということを考えさせられました。笑。

  映画の内容を説明すると、前半は原発は、いかにしてネガティブなイメージを持つようになったかについて、ヒロシマナガサキや、アニメのシンプソンズ、映画『チャイナ・シンドローム』などを挙げて説明しています。

 中盤は、化石燃料の危険性について。「発電方法別の死亡率グラフ」というのものを用いて説明していますが、「安全にコントロールされた状態の原発」(しかも、廃棄物や採掘段階のウランは考慮に入れない)と、それ以外の発電を比べるのは、果たしてフェアなのでしょうか?

 終盤に、放射線の安全性と温暖化について。この部分が、一番聞きたい内容だったのですが、分量が少なすぎではないでしょうか。「そこもっと詳しく教えてください」というところで、話題がコロコロと移ってしまうのは、「つっこみ回避」に見えてしまいます。ちなみに、この映画では、「原発を減らすと化石燃料での発電量が増えることになる」というロジックを用いていますが、2011年にエネルギー政策の大転換を決定したドイツは8基の原発を停止しましたが、化石燃料の燃焼量は増加していません。もちろん、まだまだ課題も多いですが。

 最後は、次のような言葉で締めくくられています。

エネルギーを沢山消費しても、気候に影響を与えずに暮らせるのです。ワクワクします。私には何か美しい事の始まりに思えます。

 皆さんは、どう感じるでしょうか。

 ぼくがこの映画に期待していたのは、再生可能エネルギーの普及がどれだけ難しいかということと、原子力発電所がどれだけ素晴らしいものであるかということについての新しい知見でしたが、残念ながら、どちらもこの映画には皆無でした。「それはまぁ知っているよ。知っている上で原発反対を叫んでいるんですけどね。」というのが一つ目の感想です。

 さて、本題に入ります。今回は、「後退戦に希望はあるか?」ということで、まずは後退戦とは何を指しているかですが、、、後退戦とは、今後の日本の歩むべき道です。

 まずは、内田樹先生の最近のブログから、今後の日本の見通しについての記事を転載します。

これから私たちが長期にわたる後退戦を戦うことになるという見通しを私は平田さんはじめ多くの友人たちと共有している。 私たちの国はいま「滅びる」方向に向かっている。 国が滅びることまでは望んでいないが、国民資源を個人資産に付け替えることに夢中な人たちが国政の決定機構に蟠踞している以上、彼らがこのまま国を支配し続ける以上、この先わが国が「栄える」可能性はない。 (中略) 私たちたちがいますべき最優先の仕事は「日本の山河」を守ることである。 私が「山河」というときには指しているのは海洋や土壌や大気や森林や河川のような自然環境のことだけではない。 日本の言語、学術、宗教、技芸、文学、芸能、商習慣、生活文化、さらに具体的には治安のよさや上下水道や交通や通信の安定的な運転やクラフトマンシップや接客サービスや・・・そういったものも含まれる。 (中略) 外形的なものが崩れ去っても、「山河」さえ残っていれば、国は生き延びることができる。 山河が失われれば、統治システムや経済システムだけが瓦礫の中に存続しても、そんなものには何の意味もない。 今私たちの国は滅びのプロセスをしだいに加速しながら転がり落ちている。

(内田樹の研究室 2015.1.1)

 このような意見を受け付けない人も多いかと思いますが、ぼくは概ね賛成です。多分、今までの価値基準の上に立って述べると、今後の日本はまさしく「後退戦」に入ると思います。だって、人口は減るし、資源はなくなるし、借金だって溜まる一方です。今までのように新しいものをどんどん作り出し、捨てていく、という目まぐるしい回転のライフスタイルは、今後はのぞめないでしょう。 

 でも、果たしてそれはつまらないことでしょうか。「速くなること」、「大きくなること」だけが素晴らしいことなのでしょうか。

 サッカーで言えば、フォワードに憧れる人は多いけど、キーパーだって面白いでしょう?

ぼくはよく自転車に例えて考えるのですが、自転車を手に入れるとき、新しいものを買いに行くのもワクワクしますが、古くなって使えなくなった自転車の、タイヤを変え、錆を落とし、オイルをさしてまた新しく使うということも、とてもワクワクします。確かに手間はかかるけどね。新しいものにしか「ワクワク」を見いだせなくなってしまったのが、大量生産・大量消費社会が人間にもたらした一番の弊害ではないでしょうか。

 後退戦を楽しむ。というか、今までの成長主義的な枠で捉えると「後退戦」だけど、脱成長主義で考えたら、全然「後退戦」なんかじゃないです。頭さえ切り替わっちゃったら、この「後退戦」は、もっと前向きなものだと思います。だって新しいものを作り出すよりも、「ありもの」をいかに上手に、工夫して使うかの方が、制約が多い分創造性が問われるからです。

 外交問題においても、エネルギー問題においても、前の世代のツケを払い、後世にはできるだけツケを残さないこと。これが、21世紀に生きる我々の使命なんじゃないでしょうか。

 ぼくの意見(というよりも、内田先生やその他の大人の意見だけども)に賛同してくれる若者が増えることを願って。

P.S

 それにしても、「ホール・アース・カタログ」のスチュアート・ブランドが推進論者というのは、ちょっとショックだなぁ。

 ま、これからも、特に原発については頭を固くせずに、推進派の意見も聞きながら考えていきたいトピックです。


 
 
 

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